2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/07/20「刈り入れの時を待つ」マタイ13:24−30、36-43

聖霊降臨後第6主日

初めの日課 イザヤ書 44:6-8 【旧約・ 1133頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:12-25 【新約・284頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:24-30、36-43 【新約・ 24頁】

先週から引き続き、本日の箇所も「天の国」のたとえについて語られている。本日の前半部分でも「毒麦のたとえ」と呼ばれる「譬え話」が語られ、後半部分で「たとえの説明」が語られる。先週と同様に、この後半の説明の箇所は、主イエスの言葉としてたとえを受け取った初期の教会が、過去のものとしてではなく、今を生きる自分たちに向けられた言葉として受け取った証しとして聖書に収められたと考えられる。この後半の説明の部分は「終わりの日に備えて、私たちは、毒麦ではなく、良い麦にならなければならない」、あるいは「良い麦の群れとして毒麦に警戒せよ」という教えとして受け取られて来た。しかしこの説明部分には「ドクムギをすみやかに排除せよ」とは書かれてはいない。そこにはただ、むしろ前半のたとえで語られている「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」という言葉を受けて、「正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。」という励ましと慰めの言葉が語られ、それに続いて「耳のある者は聞きなさい」と書かれているだけなのである。私たちが成すべきことはただ、希望を持ち続けること、そしてみ言葉に聞くということだけなのである。
そのことに留意しつつ、再び「たとえ」に目を向けるとき、そこにはまた新しい側面が見えてくる。そこで主イエスが語られることは、人間には何が小麦で何がドクムギかを見分けることは出来ないし、それを選り分けて排除する事も出来ない、ということなのである。刈り入れの時、言い換えるならば、世の終わりの裁きの時に裁き手となるのは私たち自身では無い。人に出来る事はただ、刈り入れの時を希望を抱いて待つことだけなのである。主イエスはこのたとえを通じて、人間が善悪を性急に区別し裁き合うことがいかに危いことであるか、むしろそこにこそ人間の弱さ、罪の本質があることを示されたのである。しかしその一方で、そうした人間の弱さと罪を、天の国は圧倒していくということもまた語られている。なぜなら、このたとえでは、たとえ小麦と毒麦とが一緒であったとしても、麦は刻一刻と成長し、確実に実りの時に近づくからである。確かに、この世に「悪」は存在し、私たちは自らの弱さのゆえに、その悪の力にあらがえず、互いに憎悪し命を奪い合う。けれども、どれほどこの世界の現実が絶望的であったとしても、天の国は確実に近づき、神は実りの時をもたらして下さる。その深い信頼をこのたとえは伝えている。
主イエスの語られた天の国は、人が自らの正しさによって他者を裁くことによってもたらされるのではない。それはただ神からもたらされる。天の国は、人が主張するそれぞれの正しさを補強するのではない。主イエスの語られた天の国は私たちの思いと予断を超えて、私たちが共に生きる時をもたらす。たとえこの地上では絶望的な弱さの中で嘆かなければならかったとしても、そこには神の備えられた永遠の命への道があることを、主イエスは十字架の死と、その死から甦りによって私たちに示された。だからこそ、私たちは今、互いに裁き合うのではなく、他者と共に生きることの中にこそ、私たちは、主イエスが死から甦られたことを、天の国が私たちに近づいていることを確信することが出来るのである。

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