2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/09/14「赦されて生きる」マタイ18:21-35

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 創世記 50:15-21 【旧約・92頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 14:1-12 【新約・ 293頁】
福音の日課 マタイによる福音書 18:21-35 【新約・ 35頁】

本日の日課では、「罪を犯したものを、何回赦すべきでしょうか、7回まででしょうか」とまずペトロが主イエスに問いかける。ペトロにしてみればこの7回というのは常識的な限度を大きく超えていると、誇るべき数字であっただろう。しかし、それは赦しというものの本質を問うものになっていないことを、主イエスは「7回どころか、7の70倍まで赦しなさい」と答えによって示される。それはもはや数値が問題ではなく、いわば数え上げることの出来る、自分の生きている世界の範囲で自らの正しさを証明しようとする、人間の発想とその限界に対して、限界など無い天の国の価値観が示されていると言える。それは続く譬えにおいてより際立たせられる。
このたとえでは、ある王の家来に1万タラントンの負債があるということが発覚する。1万タラントンとは国家予算の何年か分にも相当するような途方もない金額であった。それはもうこの金額が、現在の価値に換算することそのものが、無意味となるほどの負債であった。ここで最も重要なことは、この負債が赦される・免除されるということにある。人間の常識と発想を遙かに越えた負債が、人間の常識をやはり遙かに越える神の憐れみ、神の無制限の愛によって赦されることをこのたとえの前半部分は語る。
たとえの後半部分で、非常識な額の負債を免除された家来は、100デナリオンの貸しのある仲間を見つける。100デナリとはおよそ3ヶ月分の給与に相当すると考えられる。それはたしかに決して小さい金額ではない。したがって、この家来がこの仲間の返済を迫って訴えることは、正当な権利であると言うことができるだろう。その意味で、この家来の態度は「正しい」態度だと言える。しかし、前半部分からの続きで、この後半部分を読む私たちには、この家来の「正しい」態度の持つ限界が見えてしまう。彼の態度は「正しい」にも関わらず、その正しさによって生み出されたものは不和と対立だけであり、弱い者がさらに弱い者を叩く、負の連鎖でしかないことを、このたとえ話は私たちに厳しく訴えかける。
マタイ18章は、教会がこの地上において表れた天の国の先触れであるためには、どのようにあるべきかを語る。教会という、弱い人間の集まりに過ぎない存在がそのようなものとなること、それはまさに人間の常識と発想を遙かに超え出たものに他ならない。人間の思いにすぎない「正しさ」が生み出す不和と対立が、神の国の先触れとして神の赦しと和解の業に取って代えられるような場所に教会がなりうるとするならば、それはまさに、そこに集う者達の中心に主イエスが共におられるからに他ならない。主イエスが共におられる時、私たちは自らの思い描く「正しい」世界にしがみつくことから逃れ出ることができるのである。
神は、この神の赦しが私たちに満ち溢れるために主イエスとその十字架を送られた。まさにその意味で、教会が主イエスによって建てられるということ、その十字架を基とするということ、それは3回か7回かと問うような人の思いではなく、無制限の神の愛こそが教会を作り上げるのだということに他ならないのである。

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