2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/07/06「重荷を負う者はだれでも」マタイによる11:16-19、25-30

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 ゼカリヤ 9:9-12 【旧約・ 1489頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 7:15-25a 【新約・283頁】
福音の日課 マタイによる福音書 11:16-19、25-30 【新約・ 20頁】

本日の福音書の前半では、主イエスに対して「徴税人や罪人の仲間だ」と言って非難する声が少なくなかったことが伝えられている。徴税人や罪人とは、彼らの生きる糧を得るための働きが、当時の社会規範から逸脱するものとして白眼視されていた者達であった。主イエスは、この世の価値観と対立しつつ、そうした人々と共に食卓を囲まれる。そして本日の後半においてさらに主イエスは、ご自身が救い主であることは「知恵ある者や賢い者」には隠されていると語られる。おそらく、自分たちこそが何が正しいかを判断出来ると主張する人々こそが、徴税人や罪人と共に食卓を囲む主イエスを非難したことであろう。ここではそうした人々をして「知恵ある者や賢い者」としていると思われる。一方で主イエスは、この「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密は、「幼子のような者」に示されたと語られる。「幼子のような者」とは、自分の力では期待されるような正しいことも、十分な働きも出来ないような弱い存在である。それは「知恵ある物や賢い者」が自らの正しさと理想を実現するためには、厳しく責め立て、排除すべき存在であった。しかし主イエスは、ご自身において神の救いが始まっているということは、この「幼子のような者」にこそ示されると語られる。それはまさに、世の人々の価値観とは真っ向から対立するものであった。このように正しさについて世の価値観と対立するなかで主イエスは、最も虚しい者となるため、罪無き罪を負い、十字架に進まれた。十字架の直前となる23:4、神殿の境内で主イエスは宗教的権威者たちを指して、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」語る。しかし本日の福音書で主イエスは次のように語られる。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」まさにこの対照的な在り様の中に福音が示されている。主イエスは、担いきれない重荷を誰かに課し、その重荷を担うことが出来ないことを断罪し責め立てるのではない。そうではなく、その荷を共に担って下さるのである。それはまさに「知恵ある者や賢い者」に隠された秘密に他ならない。担えないこと、応えることができないこと。そうしたことを責め立てるのではなく、共に担おうとすること。それはまさに、幼子のように、弱く、持たざる者、足らざる者だけが、その意味を知ることが出来る、主イエスが共にあることの安らぎ、救いの出来事なのである。
主イエスに従うということは自らの考える正しさを人に課し、その重荷を背負いきれないことを非難する事なのではない。むしろ私たち自身もまた、十字架の道を進まれた主イエスの柔和と謙遜に倣い、弱いもの、持たざる者、足らざる者と共にその重荷を分かち合うことに他ならない。
この現代社会の中で、私たち自身が自らの弱さを思い知らされている。しかしそのような私たちがそれでもなお、弱く非力とされる者と共にある時、それはまさに主イエスが共におられる時なのである。主イエスと共にあること、そこにこそ私たちの真の希望、真の安らぎがある。

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