2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/08/03「愛と和解の道を歩む」ヨハネ15:9-12

平和の主日

初めの日課 ミカ書 4:1-5 【旧約・ 1452頁】
第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:13-18 【新約・354頁】
福音の日課 ヨハネによる福音書 15:9-12 【新約・ 198頁】

本日はルーテル教会平和の主日である。8月は日本社会において平和に思いを寄せる時である。戦争という暴力によって命と尊厳が蹂躙され憎しみが生み出されてきた。歴史を振り返るならば、憎しみと暴力は命と世界を破壊し深い傷跡を残すことしか出来なかったことを私たちは知る。だからこそ、憎しみと暴力を超える道筋を探し続けることこそ、歴史の責任を担うことであるはずである。しかし今日、その歴史の責任は風化しつつあるように見える。現代の日本社会では再び、暴力を求める雰囲気が育ちつつあるようにすら思う。その背後にあるものは、誰かを貶め傷つけなければ自分を肯定することが出来ないという、現代社会が抱えている深い闇ではないだろうか。私たちはこの深い闇をどのように乗り越えてゆくことができるのだろうか。
ヨハネ福音書において、今まさに十字架に向かおうとする主イエス・キリストは、残されてゆく弟子達に向かって長い別れの言葉を述べる。主イエスはその言葉によって、弟子達がこの世の様々な力に屈することなく、信仰を保ち続けるための励ましと慰めを語られる。本日の福音書はまさにその別れの言葉のただ中に位置している。そこでは主イエスと結ばれた者の生き方について語られている。
9節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」とある。つまり父なる神の主イエスへの愛と、主イエスの私たちへの愛が、同じように語られている。しかし、私たち自身を振り返るならば、その二つが等しい価値を持つということは出来ない。主イエスが私たちを愛されるのは、私たちが主イエスに匹敵する何かを成し得る者だからではなく、それがただ値無しに与える愛だからに他ならないからである。だとするならば「わたしの掟を守るなら」とあるのは、条件付けをして私たちを切り捨てるための言葉なのではなく、私たちが主イエスの愛を受けるならば、ということに他ならない。私たち自身の中から出て来る愛といえば、暴力を求め憎しみをもたらす自らへの愛でしかない。しかし主イエスは、値無しに与える愛よって私たちを満たし、憎しみと暴力から私たちを解き放たれる。キリストの愛の言葉は、私たちが愛と和解への道、暴力ではなく、対話への道を歩むための力の源に他ならない。
現実にはちっぽけでしかない自分の支配欲求と万能感を満足させるために、ひたすら他者支配しつづける先には破綻した未来しかない。そのことを対話を通じて後の世代に伝えることこそ私たちが担うべき歴史責任であった。しかし今私たちは、再び対話無き「他者の絶滅」を求める時代を生きなければならないのだろうか。私たちは闇の力に打ち倒されるしかもう道は残されていないのでだろうか。
しかし今もキリストの愛の言葉は、時を超えて現代の日本に生きる私たちのところにも届いている。私たちに迫ってくるこの世の闇、満たされることのない自己中心的な欲望に抗う力を、私たちはこのキリストの言葉から与えられている。たとえ私たち自身の力は小さく弱いものしかかなったとしても、たとえ私たちの前にある闇がどれほど深いものであったとしても、私たちの希望の光は消えることはありません。なぜならば、私たちの希望の光は、十字架の死を超えて輝くものだからである。主イエスの愛の言葉はこの地上に生きる私たちを力づけ、愛と和解の道を歩ませるのである。

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