2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/08/10「逆風の中で」マタイ14:22-33

聖霊降臨後第9主日

初めの日課 列王記上 19:9-18 【旧約・566頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 10:5-15 【新約・ 288頁】
福音の日課 マタイによる福音書 14:22-33 【新約・ 28頁】

本日の福音書の直前で、弟子達と共に5000人の供食の奇跡をなしたで主イエスは、そのまま弟子達と共にいることをせず、ただちに弟子たちを真夜中の湖で、向こう岸へ強いて渡らせる。主イエスが一人山で祈りに集中する一方で、弟子たちの舟は湖上で逆風に翻弄されることとなる。弟子達の内には漁師もいたはずだが、彼らがその人生の中で培ってきた経験と能力は、逆風の中で今や全く役に立たない。おそらく舟上の弟子たちの間では、責任を互いになすりつけて非難しあっていたのではないだろうか。舟を揺さぶる波風は同時に舟の中にある弟子たちの内面をも強く揺さぶっていたであろう。
その逆風の中で、弟子たちは湖上を歩く人影が近づいてくるのを目撃し、さらなる恐怖に襲われる。しかしその人影は語りかける。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。神が民に呼び掛ける際の「わたしだ」という語りかけそのままの言葉を聞いて、それが主イエスであることを弟子たちは知る。まさに逆風のただ中で、弟子たちは目の前におられる方こそが、神の子救い主キリストであることを知る。
主の呼びかけによって、ペトロもまた湖の上を歩み出す。しかしペトロはすぐに波に飲まれて溺れてしまう。しかしそうであるがゆえにペトロは主イエスに向かって「主よ助け手下さい」と叫ぶ。その意味でペトロは、いわばあらゆる信仰者の姿を示していると言える。主の言葉に応える事は湖の上に歩み出すがごとく私たちを危機へと追いやる。しかもその危機の中では、自分の持てる力は何一つ役に立たないこと、自分はただ主イエスを呼び求めるしかないことを知るのである。けれどもその叫び求める中で、主イエスは最も近くおられること、そして必ずすくい上げられることを私たちは知る。
溺れたペトロに向かって、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主イエスは呼びかける。この「信仰の薄い者よ」(直訳すると「小さな信仰の者」)という呼び掛けは、マタイ福音書では主イエスの言葉に聞くものに向かって語りかけられているものである。その意味で、この言葉決して溺れるペトロを見捨てるための言葉なのではない。それはむしろ、逆風の中で溺れそうになり、自らの信仰の小ささをただ嘆くしかない者を勇気づける言葉なのである。たしかに私たちは、逆風の中で漕ぎ悩み、波に飲まれるだけの小さな信仰の者でしかない。しかし、その小さな信仰の者の叫びを、主イエスは聞き取り、救いの手をさしのべられることを伝えるからである。
逆風の中での救い主との出会いは、舟の中の弟子達の有り様をも変えていったであろう。順風の中、自らに最適化された世界の中を生きる時、私たちは自らの体験・価値観こそが、最も正しいものであることを疑うことがない。しかしその正しさの行き着く先は、互いが自己を正当化し、互いの正しさをもって裁き合い、残された席を奪い合うことにしかならない。しかし、逆風の中で主イエスに出会い、その言葉を聞き、救い上げられる時、私たちは自らの弱さと小ささを知る。そしてそれでもなお私たちに投げかけられた、救いの言葉、慰めと励ましの言葉を、互いに伝えあうことができるのである。キリスト者としてこの社会の中で生きる私たちは、自らに最適化されないの世界を生きる中で救い主に出会う。そしてそれは、私たち相互の有り様をも変えてゆく出会いなのである。

0 件のコメント: