2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/07/13「種が実を結ぶには」マタイ13:1-9,18-23

聖霊降臨後第5主日

初めの日課 イザヤ書 55:10-13 【旧約・1153頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:1-11 【新約・ 283頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:1-9、18-23 【新約・ 24頁】

本日の福音書では、前半では、まず種まきのたとえが語られ、後半ではその解釈が語られている。よく読むと、この二つの間にはそれぞれを語る主体の立場が異なることに気付く。前半のたとえそのものは、種を蒔くという行為を行う人の視点で始まり、その行為の結果、蒔かれた種がどうなるか、という顛末が描かれている。しかし、後半のたとえの説明になると、むしろ蒔かれた種を受けるそれぞれの地が主体として語られる。この種まきの譬えについては多くの研究がなされているが、概してこの前半の「たとえ」そのものと後半の「たとえの解釈」は、時代が降ってから組み合わせられたのではないかと考えられている。つまり、主イエスの教えとして「たとえ」を受け取った者達が、それを自分自身に語られた神の言葉として受け取ったという歴史が、この組み合わせの背後にあったのではないかということである。多くの人々の間で信仰が受け継がれる中で、聖書は一つの文書となってきた。主イエスの言葉を良き知らせ・福音として受け取り、さらに次へと伝えずにはいられなかった、その中で、形作られてきた。いわば神の言葉が、人々を動かしてきた歴史そのものでもある。そうした意味で、この前半と後半の立場の不整合は、初期の教会が、主イエスの言葉を自らのものとした証しである、ということが出来る。そうであるならばなおのこと、今この「たとえ」を読む私たちは、それをどうやって自分のものとするのか、ということが問われている。
前半で語られる、このたとえにおいて注目すべきなのは、失われる種の割合の多さである。このたとえで紹介されたケースの4分の3は実りにつながらない。そうであるならば、種蒔く人の働きは空しく徒労に終わるだけである。しかし、そうした私たちに人間の予想を裏切って、100倍、60倍、30倍という実りを神は与えられることを、主イエスは語られる。
もし私たちがこのたとえで語られている場面に私たちが立つならば、失われたものの大きさに嘆き、わずかな収穫を奪い合うしかない。あるいは、互いに失敗を非難し、ついには、その働きの空しさに疲れ、種蒔くことを放棄してしまうかもしれない。しかし、主イエスは、種を蒔き続けられる。十字架の死という結末を迎えた、地上での主イエスの歩みは、この世の常識から言うならば、その働きの結果が挫折と徒労でしかないことを物語る。けれども、たとえどれほど、その働きが空しいものであるかのように見えたとしても、主なる神は、私たちの思いを遙かに超えた恵みの実りを与えて下さることを、主イエスのその死からの復活は私たちに示している。
たとえの解釈における良い地とは耕される地である。耕されるということは、元の形を残さない程に砕かれることである。私たちが自分の思いのみによって、未来を見据えるならば、そこには徒労と挫折そして空しさしか見いだすことが出来ない。しかし主イエスがたとえを通して語られる天の国は、私たちの思いも力も全く及び得ない領域である。そこにこそ、私たちの予想と思いを遙かに超えた実りの恵みがあることを私たちが自分のこととして受け取るには、私たちは徹底的に砕かれ、耕されねばならないのである。私たちが砕かれ、蒔かれた種を受け入れる時、私たちはこの世の挫折を超えた主イエスの十字架に希望を見いだすことができるのである。

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