2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/07/27「どんな種よりも小さいのに」マタイ13:31-33、44-52

聖霊降臨後第7主日

初めの日課 列王記上 3:5?12 【旧約・531頁】
第二の日課 ローマの信徒への手紙 8:26?39 【新約・ 285頁】
福音の日課 マタイによる福音書 13:31?33、44?52 【新約・ 25頁】

本日の日課もマタイ13章の天の国のたとえがとりあげられている。最初の「からしだねのたとえ」そして「パン種のたとえ」はいずれも、始まりの時の小ささにもかかわらず、時が来れば予想を超えて大きくなるというその対比が印象的である。「天の国」は「天の支配」と翻訳することも出来る。天におられる神の支配の働きは、今地上に生きる者の目には確かに見えないかもしれない。しかし時が来れば確実に大きくなるということをこれらのたとえは語る。始まって数十年というキリストの教会は、近づきつつある帝国の迫害に脅えつつ、また一方でユダヤの会堂との対立の中にあった。教会は、そのような緊張に絶えられず、行き場のない不安を互いにぶつあい、互いに裁き合う中を生きなければならないこともあったと思われる。そのような中で、天の国の支配はたしかにまだ見えないけれども、そのことを不安に思うことはない、むしろそれは私たちの見えないところでますます大きくなってゆくものなのだというたとえは、恐れと不安の中に生きるキリスト者達を大いに慰め励ますものだっただろう。
後半のたとえではさらに、「天の国」とは自分の努力によって導き出される実りではない、ということが語られる。それは私たちの間に既に与えられており、それを私たちはただ「発見」することが出来るだけなのである。後半の最初のたとえの中に登場する人物は、おそらく他人の土地を耕しているにすぎ無かったのであろう。しかし、そこで偶然に起こった畑の中の宝との出会いは、この人の人生のあり方をその根底から変えてしまうこととなる。この人は自分の生きてきた全てを用いて、この宝を得ようとするのである。二番目の商人は、おそらく市場で偶然に高価な真珠を発見したのであろう。あるいは他にも、同じ真珠を見ている人たちはたくさんいたかもしれない。しかし、この真珠との出会いによって、この商人もまた、自分の持てる全てを売り払ってしまう。つまりこの真珠との出会い、彼の積み重ねてきた蓄えの全てに優るものであったのである。いわば、この二人が積み重ねてきたもの、成し遂げてきたものの全ては、偶然に彼らが出会ったに過ぎないものに勝つことは出来なかったのである。その意味では、彼らのそれまでの人生は敗北に終わってしまったとすら言えるであろう。けれども彼らは喜びに満たされる。
さらに最後の漁師のたとえでは世の終わりにおける裁きについて取り上げられる。しかしそこで語られるのは、裁きの主体は人間ではなく、神の側にあるということであった。私たちに出来ることは、その終わりの時を希望を持って待ち望むことでしかない。
教会とは、天の国との出会いによって、自らの成し遂げてきたこと、成せることを相対化してゆく存在である。時として私たちは、意志を貫き純粋な集団を造り上げることこそが、信仰者の模範であると誤解する。しかしそこに生み出されるのは、互いを裁き合い、対立し合うことでしかない。主イエスはむしろ逆に、そうした一切を終わりの時の神の手に委ねることを語られる。天の国との出会いを前にするとき、私たち自身が成し遂げたこと、成し得る事は確かにごくわずかなものでしかないことを知る。しかしその一方で、天の国は確実に大きくなってゆく。私たちは、ただその天の国との出会うことを喜ぶのである。

0 件のコメント: