2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/10/05「捨てられた石が」マタイ21:33-46

聖霊降臨後第17主日

初めの日課    イザヤ書 5:1-7    【旧約・ 1067頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 3:4b-14    【新約・364頁】
福音の日課    マタイによる福音書 21:33-46    【新約・ 41頁】

本日の福音書では、先週につづいて、エルサレム入城後に、神殿を舞台にして主イエスとユダヤの宗教的権威を持つもの達との間でのやりとりが続いている。本日のたとえでは「石」と共に、旧約に登場する「ぶどう園」のモチーフが用いられる。それは本日の旧約の日課であるイザヤ5章を彷彿とさせる。旧約では、ぶどう園とは神の国を受け継ぐ民イスラエルの象徴でもあった。いのちと愛の源である神は、その民の間で、不正ではなく正義が支配し、すべての人々の、とくに最も貧しく弱い人々の命と尊厳と権利が守られることを望まれる。正義と命の尊厳こそが、主が植え育てたぶどう園がもたらさなければならなかった実であった。言うならば、預言者が語る「ぶどうが良い実を結ぶ」ということは、公正な世が確立すること、つまり弱い者が虐げられ排除されることなくその命が守られる世界、人としての尊厳が貶められることなく、互いに尊重される世界が実現することであった。
本日の福音書のたとえでは、ぶどう園を借りた農夫たちは正義を実践せず、命の尊厳を守ろうともしてはいない。そこではただ、自らが手にしているものをいかにして一時の間失わないでいるか、だけが最優先事項となっている。短期的な利益を追求するのであれば、農夫達の判断は合理的である。しかし、神の救いの歴史が実現してゆくその長い長い道筋の中で彼らの価値基準を見るならば、今あるものを失うことを恐れ、不正義と抑圧を選び取ることはあまりにも愚かである。主イエスと対峙する宗教的権威者たちは、自らの正義を疑わなかった。しかし、彼らの正義は、一時の彼らの面目と権益を固守するものであることを、この一連の問答の中で主イエスは厳しく問い詰めてゆく。権威を持つ者達と、主イエスとの間の決別は決定的となってゆく。
この後マタイ福音書では、過ぎ越祭の直前の箇所(25:31−46)で、貧しい人に食べ物を与えないことはキリスト自身を否定することである、という譬えが語られることとなる。そこでは、キリストを受け入れ、キリストに従う者になることは、キリストからいのちを受け、そしてその命を分かち合い、与え合うことに他ならないことが語られる。
神殿で宗教的権威を持つ者達と対決する主イエスは、この後に続く、十字架と復活の出来事によって、その命を私たちと分かち合われた。だからこそ、主イエスの命を与えられ、主イエスの後に続く私たちは、この地上において、新しい永遠の命に向かって、正義と命の尊厳を実現する道を既に歩んでいる。それは確かに、今は報われることもなく、失うことを余儀なくされるかもしれない。けれども、まさにその時、主イエスは私たちと共に歩まれているのである。
本日の使徒書であるフィリピ書3章でパウロはこう語る。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」
私たちもまた、既に主イエス・キリストに捕らえられ、十字架の道を歩んでいる。それはまた、復活の命、新しい永遠の命、正義と愛とが支配する神の国に生きる命への道でもある。

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