2014年10月18日土曜日

[説教要旨]2014/09/21「この最後の者にもあなたと同じように」マタイ20:1-16

聖霊降臨後第15主日

初めの日課    ヨナ書 3:10-4:11    【旧約・ 1447頁】
第二の日課    フィリピの信徒への手紙 1:21-30    【新約・362頁】
福音の日課    マタイによる福音書 20:1-16    【新約・ 38頁】

本日の福音であるたとえ話では人の思いと業に対して、神の思いと業が鋭いコントラストによって語られている。本日の福音書の日課である譬えでは、あるぶどう園の主人が労働者を雇い入れるために広場へと出て行く。彼は「ふさわしい」賃金を支払う約束で、夜明け頃(おそらく朝6時頃)から3時間おきに夕方5時にいたるまで労働者を雇い、ぶどう園へと送る。日没の頃(おそらく夕方6時頃)、賃金を支払う際に主人は全ての人に同じように1デナリオンを支払うが、これに対して朝一番から働いていた者たちは不平を言う。しかし主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」と語る。ここで展開されている事柄は、私たち人間の考える正論からは大きくかけ離れている。同じ種類の仕事であるのに、1時間の労働と丸一日の労働が同じ報酬であるということは正しいものとは考えられない。もちろん、今日の社会において、それぞれの生活を守るために、労働に対する不当な扱いに抗議することは必要であることは言うまでもない。しかし、「天の国は次のようにたとえられる。」という言葉によって始められるこの譬え話は、私たちに人の思いを超えた、天の国の在り様を垣間見せる。
当時の一人の日雇い労働者の平均年収は約200デナリオンと考えられ、それは6人の家族が生存していく最低限の金額であったと言われている。したがってこの1デナリオンという金額は、単に一日の労働の対価であるだけでなく、家族の命を支える値でもあった。すなわち、ぶどう園の主人が依拠する正しさの基準、それは「全ての者の命が救われる」ことにあった。救いの恵み、それは何よりも、後へと追いやられ、他に先んじることが出来なかった者、持っていたはずのものを失ってしまった者、失意と悲しみの中にある者にとって、なによりも大きな喜びとなる。この譬えで語られる、天の国の「正しさ」の基準とは神の限りのない恵みに基づくものであった。一方で、不平をつぶやくものたちに、ぶどう園の主人は「友よ、あなたに不当なことはしていない」と語りかける。ここで「友」とされている言葉は同労者への呼びかけに近い表現である。しかしこの表現はこの後、22:12では礼服を着ないで婚宴に参加した者への呼びかけとして、また26:50では主イエスを逮捕しようと近づくユダに対する呼びかけとして用いられている。言うならば、主イエスの呼びかけを受け入れることの出来ない者に対して、それでもなお呼びかけ続けるという思いが込められている。「不当なこと」とはつまり「ふさわしい賃金」と語られた、その「ふさわしい」ことではないことであり、つまり神がその限りのない慈しみをもって「この最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」というのはむしろふさわしい、正しいことではないか、と呼びかけている。私たちが、主イエスの「友よ」という呼びかけに応える時、私たちは、後へと追いやられ、奪い取られた者へと思いを合わせ連帯する事が出来る。そしてその時、私たちは限りの無い恵みと救いの喜びを共に分かち合う者とされるのである。

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