2010年7月5日月曜日

[説教要旨]2010/6/6「深く掘り下げて」ルカ6:37-49

聖霊降臨後第2主日

初めの日課 エレミヤ 7:1-7 【旧約・ 1188頁】
第二の日課 1コリント 15:12-20 【新約・ 320頁】
福音の日課 ルカ 6:37-49 【新約・ 113頁】

マタイ福音書では「山上の説教」と呼ばれている主イエスの教えは、ルカ福音書では、主イエスは弟子たちと共に山を下りた後に、「平らな所にお立ちにな」り、「大勢の弟子とおびただしい民衆」を前に語られる。主イエスは、選び出された12人と、また多くの民衆とに向かって、貧しい人々への幸いを語り、敵を愛することを教えられたことに続いて、「人を裁くこと」について「人の語ること」について、そして「聞くことと行うこと」について語られる。そこでは、これらの言葉を聞き、これに従うものは「いと高き方の子となる」と語られるが、主イエスの教えと業は、人々とは一線を画した隠遁生活の中で秘密裏に伝えられ、限られた選ばれた者たちのみが体験できる、というものなのではない。それはむしろ、人々が生きる地平において主イエスは同じように生き、まさにその地平においてこそ働く神の力を示されたのである。したがって、12人と多くの民衆ともまた、主イエスと同じ平らな地平に立っている。12人が民衆から一段高いものとしてと選ばれたのではない。12人と民衆の間にはなんら段差は付けられていない。それどころか、主イエスは「目を上げて」弟子たちを見て語られる(20節)。主イエスは、この輪の中で最も低いところにご自身を位置付けているのである。
「盲人が盲人の道案内をすることができようか」という言葉は、マタイ福音書では、主イエスに敵対する都の宗教的権威者たちに向かって語られている。それがここでは12弟子たちと民衆とを前にして語られる。主イエスに敵対する権威者たちと同じ態度を、主イエスの弟子たちも取り得るのである。知らず知らずのうちに、人は自らを他者よりも一段高いものとして、自らの正義を振りかざして他者を裁きうるのである。それは主イエスの教えられる「いと高き方の子」「憐れみ深い者」であることと対照的な姿であった。
むしろいと高き方の子主イエスは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられた」のであった。しかも「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死にいたるまで従順で」あった。しかしそうであるからこそ、「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」とパウロは語る。(フィリピ2:6-9)。だからこそ、主イエスは最も低いところから、弟子たちにその眼差しを向けられ、語られるのである。主イエスの言葉を聞くということは、主イエス立たれている場所へ、自らをまた低くすることに他ならない。そうであってはじめて「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」(フィリピ2:11)ことができるのである。主イエスの言葉が、本当に生きた神の力として働かれ、私たちを福音(良いメッセージ)によって満たされるのは、私たちが主イエスと同じ低みへと向かうことによってなのである。
「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。」と主イエスは語られる。私たちが自らの立つ基を深く、低く掘り下げる時、主イエスの言葉は私たちを固く支えるのである。

0 件のコメント: