2010年7月4日日曜日

[説教要旨] 2010/5/9「平和を与える」ヨハネ14:23-29

復活後第5主日

初めの日課 使徒言行録 14:8-18 【新約・241頁】
第二の日課 黙示録 21:22-27 【新約・479頁】
福音の日課 ヨハネ 14:23-29 【新約・197頁】

主イエスはご自身に従ってきた弟子たちが、使命を与えられ、世に遣わされていかなくてはならない集団となるために、長い告別のメッセージの中で、主イエスは弟子たちに向かって繰り返し、信仰の奥義としての「父なる神とご自身が一つであること」を語られる。それは、まもなく主イエスが弟子たちと別れ、十字架における死への道を歩むことを見据えたものであった。たとえ、弟子たちの前から、自分がいなくなったとしても、父なる神と、主イエスと、そして弟子たちは一つであるということ。そして、地上に残された弟子たちはその主イエスについて、宣べ伝える使命を与えられているということを、主イエスは弟子たちに伝えようとする。しかし、弟子の一人は、主イエスに向かって、なぜご自身が神と一つであることを世に明らかにしないのか、と問いかける。この弟子の理解においては、父なる神と主イエスが一つであるならば、このことを世に公けにすれば、世はたちどころに主イエスのもとに屈服し、主イエスはこの地上に君臨することもできるはずなのではないのか。そうすれば、自分たちもいともたやすく、地上を思うがままに支配することが出来る、自分たちの考える理想をたやすく実現できる、そのような思いがあったのであろう。
しかし、その問いに対する主イエスの答えは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」というものであった。そして主イエスはさらにこう語られる。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」主イエスが弟子たちに命じられ、約束されたこと、それは地上に君臨し支配することではなく、平和を残すということであった。主イエスの言葉を守り、主イエスを愛するということ、それは自らの理想のために、他者を支配し、君臨することではなく、主イエスの残された平和を受けとめ、その平和の内に生きることなのである。
主イエスの平和、それは私たちの理想が満たされることなのではない。あくまでも自分たちの理解できる形で、主イエスの示されるものを捉えようとする弟子たちに、主イエスはそうではない領域を示される。主イエスが約束されるもの、それは私たち地上に生きる人間の理想や考えの延長線の上では、見いだすことの出来ないものなのである。そもそも、私たち自身の思いと力では、どれほど高邁な理想を掲げたとしても、そこには争いと断絶が必ず生まれ、失望と悲嘆とが私たちを襲うこととなる。しかし、主イエスが私たちに約束されるもの、それは父なる神、天から与えられる平和なのである。そうであるからこそ、わたしたちの不完全で不十分な現実は、満たされ完成されるのである。「わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」私たちを取り巻く状況が、その目にはたとえ理想からほど遠いものであったとしても、私たちは心を騒がせ、おびえる必要はない。私たちには主イエスの約束された平和が与えられているのである。

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