2010年7月4日日曜日

[説教要旨] 2010/4/25「キリストに従う」ヨハネ10:22-30

復活後第3主日

初めの日課 使徒言行録 13:26-39 【新約・239頁】
第二の日課 黙示録 7:9-17 【新約・460頁】
福音の日課 ヨハネ 10:22-30 【新約・187頁】

本日のヨハネ福音書では、神殿において主イエスがエルサレムの人々から「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と問い糾される。ここで主イエスを問い詰める人々の口調は、マルコ・ルカ福音書などで十字架の直前に最高法院で行われた尋問を彷彿とさせる。その質問は、主イエスを受け入れようとするためのものではなく、主イエスを否定することを前提になされるものであった。エルサレムの人々、最高法院の議員らは、主イエスの言動に気をもみ、そして主イエスを否定せずにはいられないのである。その人々にとって、主イエスがメシアすなわち油注がれた救い主であることはあってはならないことであった。いわばその人たちは、主イエスを否定するために、主イエスがメシア(=キリスト)であることを明らかにさせようとするのである。
既に4章では、主イエスはご自身がキリストであることをサマリアの村の井戸で一人の女性には語られ、さらに多くの人々が主イエスの言葉を信じた、と書かれている。人々は「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と語る。その様子は、本日の箇所のエルサレムの神殿での出来事と鋭い対照をなしている。どちらの場合も、メシアを待ち望み、主イエスご自身に出会いながら、その結末としての振る舞いは180度異なっているのである。サマリアの人々は主イエスを受け入れ、エルサレムの人々は主イエスを石で打ち殺そうとした。果たして何が、その二つを分けたのであろうか。
結論から言うならば、それはキリストに従うか否か、ということであった。そして、キリストに従うと言うこと、それはキリストの正義が私たちの正義を圧倒し、打ち倒されるということに他ならない。エルサレムの神殿の人々は、自らの正しさは何者にも打ち倒されることはないと確信していた。だからこそ、主イエスに出会いながら、主イエスをキリストとして受け入れることができず、彼らはキリストに従うことが出来なかった。
では誰がキリストに従うことができるのかと問うならば、それは神の正義の前に自らの不十分さを恐れおののき、しかしそうでありながら、主イエスの十字架と復活によって和解と赦しを与えられた者に他ならない。主イエスに従う群れ、すなわち「聖徒の教会は、罪のない者や完全な者の『理想的な』教会ではない。罪人に悔い改めの余地を全く与えないような、純潔の者の教会ではないのである。聖徒の教会とはむしろ、自分で自分を許すこととは全く何の関係もない神の赦しが、ここで真実に宣べ伝えられることによって、みずからが罪の赦しの福音に値するものであることを示す教会」(D.ボンヘッファー)なのである。

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