2010年7月5日月曜日

[説教要旨]2010/5/23「風が吹いて」使徒言行録2:1-21

聖霊降臨祭

初めの日課 創世記 11:1-9 【旧約・ 13頁】
第二の日課 使徒言行録 2:1-21 【新約・ 214頁】
福音の日課 ヨハネ 16:4b-11 【新約・ 200頁】

本日は聖霊降臨祭、ペンテコステである。ペンテコステとは、50日目(五旬祭)という意味を現すギリシア語であり、ユダヤでは過越祭の2日目から数えて7週目の日に守られた祝祭であった。これは旧約では刈り入れの祭り(出23:16)、七週祭(出34:22)とも呼ばれ、春の除酵祭(過越祭)、秋の取り入れの祭り(仮庵祭)と共に三大祝祭日の一つであった。元来は小麦の収穫を祝う祝祭であったが、後の時代に、この日にシナイ山で十戒が授与されたされたという意義を加えて、律法記念日として守られることとなった。
復活の主イエスが弟子たちの前で天に昇られた後、この五旬祭の弟子たちが一つに集まっている時に、激しい風が吹き、弟子たちの上に聖霊が降る。風、霊、あるいは魂、息、それはギリシア語では同じ言葉で表されるものであり、目には見えないが、何かを動かす力を意味している。そして、この聖霊の風を受けた時から弟子たちによるこの地上での宣教の働きが始まったと、聖書は告げる。それゆえに、キリスト教ではこの日を聖霊降臨の出来事を憶える日とし、またその聖霊の働きによって、「教会」が始まった時であるとした。
聖霊の風を受けた弟子たちは、突然に様々な国の言葉で語り始める。その様子はまるで「新しいぶどう酒に酔っている」ようであると人々は語る。つまり、あまりに多様な言語で語る集団は人々の目には、およそ非常識で、社会規範から逸脱したものとしか移らなかったのである。さらに言うならば、弟子たちが様々な国の言葉で語っていたこと、それは主イエスの十字架と復活についてであった。それは、酔ったような弟子たちの外見以上に、非常識で逸脱したものであった。主イエスは、十字架に死に、そして甦ったということ、それは言うならば、常識的な範疇の中で、人の考える妥当で順当な筋道の中では、決して得ることの出来ない希望と喜びの出来事なのである。無から命を作られる、命の創造主である神のその見えない力は、主イエスとの別れを経験した弟子たちをして、希望と喜びと力とで満たされたのである。
また様々な国の言葉で語りつつも、弟子たちは「一つ」であった。これは、旧約のバベルの塔の出来事とまさに正反対の状況を形作っている。異なる言葉を語る時、一方では混乱と崩壊がもたらされ、他方では一致と喜びと希望がもたらされる。その違いはどこにあるであろうか。バベルの塔の出来事、それは人々が自らの威光と権力を地上に示し、自らの力で天にまで届くことを求めた結果であった。人が己の正しさと理想、そして栄光と威光とを目指すとき、それは必ず不信と争いを招くことになる。そこでは多様性は不要のものであり、排除・抑圧されるべきものである。しかし唯一の理想と権威を目指したその結果もたらされるもの、それは混乱と崩壊でしかなかった。他方、聖霊降臨の出来事において、非常識とも言えるその多様性は喜びの源泉であり、福音を伝える力そのものであった。死から命を創り出される神は、排除と抑圧、不信と争いの中に、喜びと希望とを分かち合い、一致する力を与えられる。聖霊降臨の出来事は、主イエスの十字架と復活を信じる私たちの教会にもまた、喜びと希望を分かち合い、一致する力が与えられていることを伝えている。

0 件のコメント: