2010年7月5日月曜日

[説教要旨]2010/6/20「もう泣かなくともよい」ルカ7:11-17

聖霊降臨後第4主日

初めの日課 列王記上 17:17-24 【旧約・ 562頁】
第二の日課 ガラテヤ 1:11-24 【新約・ 342頁】
福音の日課 ルカ 7:11-17 【新約・ 115頁】

主イエスは、カファルナウムに続いてナインの町へと赴かれる。ナインは、主イエスの故郷ナザレから10km弱離れた、ガリラヤ地方の町の一つであった。主イエスは、「ナザレのイエス」という呼び方とともに、「ガリラヤのイエス」とも呼ばれた(マタイ26:69)。ガリラヤという名前は、ヘブライ語では「輪」「周辺」「地域」という意味をもつ言葉に由来している。この地域は、豊富な水を備えた肥沃な土地であり、古代から入植が進んでいた。このためにガリラヤ住民は外部世界との交流から刺激を受けていたため、南部の「厳格なユダヤ人」からは「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれ、あるいは「(ガリラヤの)ナザレから何か良いものが出るだろうか」また「ガリラヤからは預言者はでない」と言われていた。しかし、この周辺の地であるガリラヤ地方こそが、主イエスの地上での宣教の業の原点というべき場所であった。主イエスはこのガリラヤで様々な「壁」をその言葉を持って打ち破られたのである。
百人隊長の僕を癒しの出来事は、主イエスの言葉は、ユダヤ人以外にその救いの出来事をもたらした。そして、このナインにおいて、主イエスの言葉は、人の命を脅かす死の力をも打ち破られることになる。これらの壁を打ち破る働きこそが、「来るべき方はあなたでしょうか」と問う、洗礼者ヨハネの弟子達に対して、「言って、見聞きしたことをヨハネに告げなさい」と語られていたことの証しであった。
ナインの町で、主イエスは嘆きと悲しみの深淵にあるひとりの「やもめ」に出会う。古代社会において「やもめ」とは極めて虐げられやすい立場であった。当時の社会では、夫を失い、一人息子を失うということは社会的な死であり、一切の主体的な働きを奪われてしまった存在となっていた。13節で「主はこの母親をみて、憐れに思い」と書かれている。「主」という言葉は、ギリシア語の第一の意味としては「雇用主」「主人」、もしくは一般的な敬語でもあった。しかし、このやもめに向かうイエスは、「憐れむ主」であり、「もう泣かなくともよい」という言葉を告げる「救い主」としての主である。そして、救い主の言葉は、棺に横たわる息子である若者へと向けられる。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)。この主イエスの言葉を中心にして、死の運命が逆転する。主イエスの言葉は、私たちを滅びへと追いやる死の力に抗う力なのである。
この出来事は、ガリラヤだけでなくユダヤの全土に広まることとなる。しかし、それはただユダヤの地だけではない。民族を超え、時代を超え、今私たち自身に対しても、聖書を通して、主イエスを証する出来事となっているのである。その出来事の発端は、一人のやもめという「弱い存在」が救い主としてのイエスの業、すなわち十字架の出来事の先取りを導き出す。それはまさに「神はその民を心にかけてくださった」(16節)瞬間であった。主イエスを証しするということは、その人の強さや能力の高さを示すものではない。むしろその人の弱さを通して、主イエスを指し示すことなのである。

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