2010年7月5日月曜日

[説教要旨]2010/5/30「命と平和の真理」 ヨハネ16:12-15

三位一体主日

初めの日課 イザヤ 6:1-8 【旧約・ 1069頁】
第二の日課 ローマ 8:1-13 【新約・ 283頁】
福音の日課 ヨハネ 16:12-15 【新約・ 200頁】

待降節・アドベントから聖霊降臨祭・ペンテコステまでの間、教会の暦は主イエスの地上での歩みを振り返ってきた。そして一年の後半では、主イエスの教えられた事柄についての聖書箇所が読まれることになる。その境界である本日は、「三位一体主日」と呼ばれている。この主日には主イエスの地上の歩み、すなわち実現する救済史の中の具体的な出来事は特に割り当てられていない。しかし、教会暦の前半と後半を結ぶ日という位置付けは、救いの歴史の出来事、すなわちクリスマス(父の業)、イースター(御子の業)そしてペンテコステ(聖霊の業)の総まとめとして理解し、そして、主イエスの教えに聞くいわゆる「教会の半年」に向けて、聖書がその全体を通して語り伝えている真理を私たちに今一度思い起こさせる。
ヨハネ福音書の告別の説教の中で、主イエスは弟子たちに向かって「真理の霊」について語られる。全段落ではそれは「弁護者」とも呼ばれている。主イエスと地上での別れを体験した後、弟子たちはこの世においてつらく厳しい道を歩まねばならない。闇の世は主イエスを受け入れることが出来ないからである。しかし、来るべき弁護者はその世に対して働きかける力であることを主イエスは語られる。弁護者の力が無ければ、世は主イエスを知り、信ずることができないのである。
続いてさらに、今度は弟子たちに対して、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない」と語られる。彼らもまた、この告別説教が語られているとき、すなわち弁護者・真理の霊なしには、主イエスが地上で為された事、語られた事のその真の意味について、まだ分からないでいる。
主イエスと共に旅をしてきた弟子たちは、主イエスの働きと教えを間近で見聞きしていた。その意味では、誰よりも精確に理解することができたはずであった。しかし、「イエスが何を語り、何をしたか」ということをどれほど精確に描写しても、それは「分かる」ということには結びつかなかった。それは、弟子たち自身の個人的な体験に過ぎなかった。自分たちが体験した主イエスの業と教えを本当の意味で「救いの出来事」として彼らが理解することができたのは、十字架と復活、主イエスとの再会と別離を経て、「真理の霊が来る」のを待たなければならなかった。
ここで注目すべきは、主イエスは一度も「真理を与える」とは言っていないという点である。真理の霊は、主イエスが父から受けたものを、弟子たちに、そして私たちに「告げる」のである。実に、私たちは「真理」を自分ものとすることなどは出来ない。もし私たちが、あたかもこの私が真理を手にしていると誤解するならば、私たちはあまりに容易に、自分自身を正義として他者を裁き、他者の上に君臨しようとしてしまう。しかし、真理の霊・弁護者は、私たちを真理へと「導く」。それは、この地上で憎悪と敵対との中で悩み傷つく私たちを、命と平和、和解と解放へと導く真理である。パウロは語る。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ローマ8:6)。主イエスの真理は私たち人間の義を打ち破り、私たちを救いと解放と命へと導かれる。

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