2010年7月4日日曜日

[説教要旨] 2010/5/2「新しい掟を与える」 ヨハネ13:31-35

復活後第4主日

初めの日課 使徒言行録 13:44-52 【新約・ 240頁】
第二の日課 黙示録 21:1-5 【新約・ 477頁】
福音の日課 ヨハネ 13:31-35 【新約・ 195頁】

本日の福音書では、主イエスが弟子の足を洗い、ユダが夜の闇へと去った後、主イエスの「告別説教」と呼ばれる長い一人語りが始まっている。主イエスを十字架へと引き渡すためにユダが消えて行った闇から、主イエスは弟子たちに向き直り、「今や、人の子は栄光を受けた」と語る。それは十字架と復活の出来事の幕が切って落とされたことを私たちに告げている。夜の闇の最も深い時こそ、福音の光が輝く時なのである。
人の子、つまり主イエスの「栄光」は、弟子たちの足を洗うことから始まっていた。ここで主イエスが語る弟子たることの奥義は、弟子の足を洗うという行為、そして「互いに愛し合いなさい」という教えと結びついている。それらはいずれも、私たちの日常的な領域に根ざすものでしかない。私たちが、永遠の命の世界を知るために主イエスの弟子でありつづける、そのために必要なこととは、私たちが私たちの日常のなかでなされるべき事柄であると主イエスは語られるのである。
足を洗うというのは、具体的な目に見える行為である。しかし主イエスにおいてその行為は同時に、見えない世界すなわち主イエスが父なる神と共にある世界を示している。主イエスは、甦り、父なる神とともにおられる神の子救い主である。しかし同時に、私たちの生きるこの地上を共に生きた人であった。それゆえに、その働きは私たちの生きる日常の中での具体的なものであった。しかし、それは単に過ぎ去った過去の出来事では終わらない、永遠の領域を指し示している。過ぎ去る事柄が永遠のものとなるということ、別離と受難が栄光の出来事となるということ、二つの対立する領域が、主イエスにおいて結びつけられているのである。
私たちは、この地上において、自分の為す事また成せる事の小ささ、空しさに打ちのめされ、そこでの営みに倦み疲れ、その魂は飢え乾いている。そうであるからこそ、永遠の価値を持つものによって、その空しさを満たされることを求めて、信仰により頼むのである。
私たちがその日常の中で成し遂げられることが、どれほど小さく空しいものであったとしても、それが主イエスの言葉によって押し出される時、そこには既に永遠の命の領域が開かれているのである。主イエスの言葉は、私たちの日常を支配する様々なこの地上の掟を凌駕する。それが主イエスの言葉に押し出されてなされる時、私たちの小さく空しい業は、永遠の愛の業として用いられるのである。私たちの魂の飢えと乾きが満たされる時、それは、私たちの日常の中に差し込む光、すなわち主イエスの言葉、新しい愛の掟によって動かされる時なのである。

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