2013年12月17日火曜日

[説教要旨]2013/12/15「来るべき方は」マタイ11:2-11

待降節第3主日

初めの日課 イザヤ 35:1-10 【旧約・ 1116頁】
第二の日課 ヤコブ 5:7-10 【新約・ 426頁】
福音の日課 マタイ 11:2-11 【新約・ 19頁】

 洗礼者ヨハネは、ヨルダン川において世の不正を明らかにし悔い改めを呼びかけ、人びとに洗礼を授ける活動を行っていた。彼の厳しい批判と断罪はユダヤの政治的な支配者であるヘロデにまで及んだ。権力に対して容赦なくその批判を向けたヨハネは逮捕され投獄される。獄中において彼は、自分が為し遂げることが出来なかった事の完成を「来るべき方」に期待する。しかし、彼が獄中で聞いた主イエスの教えと働きは、思い描いた来るべき方の姿ではなかった。ヨハネは弟子たちを遣わして、主イエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」と問う。洗礼者ヨハネが期待していたものとは、彼が始めた断罪と裁きの呼びかけを徹底する人物であったと思われる。けれども、断罪ではなく赦しを、裁きではなく解放を主イエスは伝え、そして病と貧困、人を苦しめる様々な力から人びとを解き放つ方であった。洗礼者ヨハネの問いに対して主イエスは期待するようには応えられなかった。その意味では、洗礼者ヨハネの期待は裏切られたと言える。
 おそらく洗礼者ヨハネが来るべき方に対して抱いていたイメージは、神の到来に備えてヨハネ自身の思い描く秩序を完成される方、つまり塵一つ無く静寂で厳格な地上を準備する働きを完成する方であったのではないだろうか。しかし主イエスが為されたことはむしろ、その歩まれた場所に溢れるような新たな命をもたらし、そこに喜びと感謝の声をもって満たされるかたであった。それはたしかに、むしろ混沌と騒がしさ、無秩序をもたらすかのようにすら思われたかもしれない。けれどもこの地上に命と喜びを生み出すことこそ、まさに天地を創られた神の愛の業であった。洗礼者ヨハネは確かに、この地上においては最も偉大な者であるとされる。けれども、天の国、神の国の出来事は、その最も偉大な者の計画と思惑すら遙かに凌駕するものであることを、主イエスは語られる。なによりも、その言葉を語られる主イエスご自身が、人間的な視点で見るならば、挫折と絶望としか見えない、十字架への道を歩まれた。しかしその道は挫折と絶望に終わることなく、私たちの思惑と期待を遙かに超えて、主イエスの復活の命は続いてゆくのである。そして、主イエスが備えられた道は、潰えることのない永遠の希望と喜びへ、私たちを導いている。その主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られる。洗礼者ヨハネの抱いていた期待は、いわば人の思いの延長線上にあったと言える。しかし、救いの出来事は、私たちの期待や思惑の延長線上で、計画通りに進展することはなく、むしろ、私たちのそうした思惑の延長を切断し、新しい道、救いと永遠の命への道を歩むことを余儀なくさせるのである。
 主の降誕に備えるアドベントの時を私たちは過ごしている。それは私たちが、自らが抱いてきた思惑や期待を振り返り、その延長線上に救い主はいないということを今一度思い起こす時でもある。けれどもそれは同時に、私たちの思いと期待を遙かに超えた神の救いは、主イエスによって私たちに与えられたことに私たちが立ち返る時でもある。天より与えられる私たちの救いを待ち望みたい。

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