2013年12月14日土曜日

[説教要旨]2013/12/8「荒れ野で叫ぶ者の声て」マタイ3:1-12

待降節第2主日

初めの日課 イザヤ 11:1-10 【旧約・ 1078頁】
第二の日課 ローマ 15:4-13 【新約・ 295頁】
福音の日課 マタイ 3:1-12 【新約・ 3頁】

 待降節第2主日を迎え、アドベントクランツの2つめの火が灯った。夜の闇が最も長くなる季節であるクリスマスが近づくと共に、アドベントクランツのロウソクの灯火は増え、明るさを増してゆく。それは、世の闇の最も深まる時、世の光・救い主キリストが私たちのもとへ到来されれることを告げる。本日の福音書に登場する洗礼者ヨハネもまた、イスラエルの地に現れた預言者の一人として、救い主キリストの到来を告げるものに他ならなかった。
 ヨハネは、ヨルダン川において悔い改めの洗礼を授ける活動を行っていた。当時のユダヤでは、自らの生活の宗教的清さを保つための儀式として度々沐浴が行われていた。ヨハネはこの「清め」の沐浴に、さらに「悔い改め」の意味を与えて人々に洗礼を施した。その違いを敢えて挙げるならば、清めはある枠内に留まることに強調点があるのに対して、悔い改めは自らを神の方へと向け直す、動的な意味があると言えるだろう。ヨハネは、人々に悔い改めを呼び掛け、地上の力に支配された自らの命を、今や近づきつつある神の国に委ねることを求めたのだった。
 そのヨハネが叫んでいた「荒れ野」とは、神から離れてしまう自らの心を覆い隠すことの出来るものが全て取り去られた場所である。あらゆる虚飾がはぎ取られ、剥き出しにされて、自らが神から離れてしまったことを告白し、悔い改めてその命を委ねよ、とヨハネは叫ぶ。ヨハネの立っている荒れ野では自らを「清い者」であると誇ることはもはや不可能なのである。
 本日の日課に登場するファリサイ派、サドカイ派と呼ばれる人々は、それぞれの仕方で律法・掟を守り、自らを清く保つことに努力し専心した者達であった。それゆえに自分たちこそが民族を代表する、中心的な存在であるという自負も小さくはなかったであろう。しかしその彼らに対してもヨハネは容赦なく「悔い改め」を迫る。自らを清く保つためにの自分達の努力に彼らがどれほど自信をもっていたとしても、それはこの荒れ野では役立たない。神の前にある一つの命として、神の国にその命を委ねるしかない。このヨハネの叫びは、時の権力者たちの耳には痛いものであり、結局彼は逮捕され処刑されてしまう。ならばその叫びは無駄に、未完成のまま終わってしまったのだろうか。
 本日の箇所でヨハネは語る。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」人としてのこの地上での歩みによっては完成することの出来ないものを、来るべき方は完成して下さる。ヨハネは全てを自らの手で完成させることを望んでいたのではなく、むしろ完成して下さる方は他におられること、私たちの悔い改めとは、この方に、全てを委ねることなのだということ、そしてなによりもヨハネ自身が全てをその方に委ねていることをこの荒れ野で叫ぶのである。まさにその意味で、ヨハネは主イエス・キリストの到来を示し、その主イエス・キリストにその全ての希望を託したのだった。アドベントの季節、私たちの思いを越えて、私たちの間に神の約束が実現する希望を持ち続けたい。

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