2013年12月5日木曜日

[説教要旨]2013/11/03「失われたものを捜すために」ルカ19:1−10

聖霊降臨後第24主日/三鷹教会・West Tokyo Union Church合同礼拝

福音の日課 ルカ 19:1−10 【新約・ 146頁】

本日の日課に先立つ18:31では、主イエスは弟子たちに向かってご自身の十字架と復活についての3度目の予告をされる。そして、その目的地エルサレムに入る直前に、一行はエリコの街を通る。エリコは交通の要所でローマ時代には税関が置かれていた。当時の徴税制度は何重にも積み重なる下請け構造であり、結果として末端で徴収される税額は大きく膨らむこととなった。また下請け構造の途中で金を懐に入れる者も少なくなかった。このため当時のユダヤ社会の中では徴税人は嫌われ者であり、さらには詐欺師であるとして、裁判では証人としての資格がないとされるほどであった。つまり、社会の中で徴税人は、その語る言葉を聞くことなど必要無いものとして扱われていたのだった。本日の物語に登場するザアカイは、「徴税人の頭」であり、金持ちであったと紹介されている。おそらくザアカイは、その立場を利用して利ざやを稼ぎ、自分の財産をつくりあげたのであろう。詐欺師と呼ばれ、誰も彼の言葉に耳を貸すことのない中で蔑まれながら積み上げた財産は、いわば彼の全てであった。ただ金の力だけが、彼が信じることの出来る唯一の力であったかもしれない。しかしそれはまた、苦悩と不安とによって押しつぶされそうにになる人生だったのではないだろうか。
そのザアカイが主イエスを「見ようとした」。この表現には、偶発的ではなく積極的に求める姿勢が込められている。金の力だけを信頼していたであろうザアカイは、主イエスが目の見えない男を癒された出来事を聞き、自分がまだ見たことも聞いたこともない「何か」を主イエスに期待したのではないだろうか。
ザアカイは、この主イエスという人を見ようとするが、群衆に遮られてしまう。しかしなぜかザアカイはそこであきらめず、何かに押し出されるかのように先回りし、木に登って主イエスを待ち構える。主イエスを見ようと求めたザアカイは、逆に主イエスの前に自分自身をさらけ出す。その彼に向かって主イエスは「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかける。この主イエスの言葉は確かに、ザアカイへの招きの言葉であるが、主イエスが招く先は、他でもないザアカイ自身の家である。つまり、ザアカイに対する主イエスの招きの言葉が、逆にザアカイに、自分の家に主イエスを迎えさせるのである。つまり、この物語でザアカイは、主イエスを見ようとして逆に見つけ出され、主イエスに招かれて、逆に主イエスを招くこととなるのである。
主イエスを迎え、それまでは金の力だけを信じていたであろうザアカイは全く違う生き方を与えられる。主イエスによって捜し出されたザアカイは、その主イエスによって新しい命へと招かれる。人々から非難される中、主イエスは「今日、救いがこの家を訪れた」と主イエスは語るが、物語の中でザアカイの家を訪れたのは、他ならない主イエスご自身であった。つまり、ザアカイのもとに訪れた救いとは、十字架への道を進む、主イエスご自身に他ならない。十字架の死へと進み、しかしその死から甦られた主イエスこそ、私たちに与えられた救いなのである。主イエスの十字架と復活とは、私たちの智恵と力を超えて、私たちに備えられる、永遠に滅びることのない希望、新しい命への約束なのである。
この地上の世で、苦悩と不安の中で、私たちの目に救いは隠されているようにしか思われないことがある。けれども、救いそのものである主イエスご自身が、失われたものを探し出され、私たちの心を開いて私たちのもとを訪ね、私たちを新しい命へと招かれるのである。

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