2013年12月5日木曜日

[説教要旨]2013/11/10「幸いな者たち」ルカ6:20-26

召天者記念礼拝

初めの日課 ダニエル 7:1-3a、15-18 【旧約・ 1392頁】
第二の日課 エフェソ 1:11-23 【新約・ 352頁】
福音の日課 ルカ 6:20-31 【新約・ 112頁】

 教会の伝統では11/1を「全聖徒の日」とし、すべての先に天に召された人々を記念する礼拝を守るようになった。今年三鷹教会では11/10に、先に天に召された者たちに思いを向けている。私たちは、今自分が生きていることは誰もが知っている。そしてその地上での命には限りがあることもまた知っている。しかし、その命がどこから来たのか、そしてそれはいずれどこへと行くのかについて知っている者は誰もいない。ただ、先に召された者たちに思いを向ける時、私たちは過ぎ去らない命の在り様について垣間見ることができるのである。
 本日の福音書は、主イエス・キリストの「平地の説教」の一部として良く知られた箇所が選ばれている。マタイによる福音書にも本日の箇所と同様の言葉が収録されているが、そちらは舞台が山の上に設定されている。この福音書を編纂したルカは、主イエスの語られる言葉が世の全ての人に行き渡る様子を強調するために、山から下りた地にあえて舞台を移したのではないかと考えられる。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」この主イエスの言葉は、現に目に前にいる者たちだけでなく、あらゆる時代の世界の全ての人々へと響いてゆく。
 ここで主イエスが挙げる、持たざる者であること、植えた者であること、涙を流す者であること、それらはあらゆる意味で私たちの地上の価値観での「幸い」とは全く逆のものなのである。それにも関わらず、主イエスは「幸いである」と祝福の宣言をされる。実に、主イエスがこの祝福を宣言される時、そこには現に今人間に見えているものを超えた、神の国の出来事が重ね合わされ、垣間見えているのである。たしかに地上での生の歩みの中で、人は思い半ばにして、未完成のままで終えなくてはならないこと、報いられないまま終わらねばならないことがある。けれども、それは決してそこに留まることはないということ、あらゆる不足が満たされ、悲しみが慰められ、未完のままに終わったものが完成されるのだということを、主イエスは祝福の宣言によって示されるのである。さらに、主イエスから「あなたがた」と呼びかけられた私たちは、貧しい者、飢えた者、泣いている者が、喜び、満たされ慰められるのは、その人々の功績が充分であったからであるとか、素晴らしいことを成し遂げたからであるとか、そうしたことは何も触れられていないことに気付く。ただ今、持たざるものであり、飢え渇くものであり、涙を流すしかない。そのような、弱く力ない、一人の人であることそのものによって、祝福は宣言されるのである。
 そして何よりも、この祝福を宣言される主イエスご自身が、挫折と痛みの極みである十字架の死へと向かい、その死から甦られたのだった。この十字架によって、神は全ての事柄を完成させ、全ての悲しみと苦悩を受け取り、そしてそこに永遠の命への希望を備えて下さることを、私たちに示された。その意味で、主イエスの十字架を通して、主イエスのこの祝福の言葉は生と死に分けられている、先に召された多くの先達者たちも、そしてまた今なおこの地上を歩む私たちにも届けられている。主イエスの十字架を通して私たちは共に祝福を受け、慰められ、満たされているのである。

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