2013年12月5日木曜日

[説教要旨]2013/11/24「選ばれた者なら」ルカ23:33−43

聖霊降臨後第27主日

初めの日課 エレミヤ 23:1−6 【旧約・ 1218頁】
第二の日課 コロサイ 1:11−20 【新約・ 368頁】
福音の日課 ルカ 23:33−43 【新約・ 205頁】

 本日は、待降節から始まる教会の暦の最後の主日礼拝となる。現在三鷹教会で用いている「改訂共通日課」では、教会暦の最後の主日を「キリストの支配」つまり「王であるキリスト」を憶える日としているが、その日課として主イエスの受難のその最後の箇所が選ばれている。そこでは、十字架に架けられ、「もしメシアであるならば、自分自身を救え」とあざ笑われ、侮蔑され、罵られる主イエスの姿が描かれる。最初に登場する議員たちは、実は目の前の主イエスのことを三人称で語っている。つまり彼らにとっては、赦しと救いを伝える主イエスは、自分達とは無縁な、むしろその平穏な日常を脅かす疎ましい者でしかなかった。続いて兵士達は主イエスをなぶり者にする。兵士達にとっての主イエスとは自らの退屈を一時紛らわせるものでしかなかった。さらに一緒に刑を受けている者もまた主イエスを罵る。おそらくこの男は自らの挫折と孤独とに対する呪詛を主イエスに向かって投げつけていたのであろう。病める者弱き者へと関わることを自分と関わりの無いものとして疎ましく思い、他者の存在をもてあそび、そして呪詛を吐き続ける。十字架を巡るこれらの人々の反応はまさに、この地上に生きる私たちの心の闇を映し出す。とりわけ「選ばれたものなら、自分を救うがよい」という言葉、選ばれたメシア・救い主であるならば、十字架から降りて自分を救うことができるはずではないのか。それは私たち自身の問い、疑念でもある。主イエスを嘲り罵る者たちにとって、無残で力なく十字架にかかったままであることは、主イエスが選ばれた救い主キリストではないことの証拠でしかなかった。
 しかし、もう一人の同じく十字架刑を受けた者は語る。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。彼が見たものは、自分と同じ苦しみを負う方、人間の悲しみと絶望を共に担って下さる方に他ならなかった。彼にとっては、主イエスは十字架から降りられないのではなく、むしろ降りないことによって、まさに選ばれた救い主であった。
 主イエスの王権と支配とは、暴力と恐怖によって支配を争い合うようなものではなかった。むしろ主イエスはこの地上に永遠の神の愛をもたらすために来られたのだった。この永遠の神の愛は、十字架の主イエスこそが、選ばれた救い主であることによって私たちに示される。十字架は、神が私たちの苦しみを悲しみを絶望を、共に担って下さること、そしてまた、さらに永遠の新しい復活の命へと続いて行く、その希望を私たちに与える。主イエスの支配とは、まさに十字架によって示された神の愛の支配なのである。たとえこの世のあらゆる権威と権力が終わりを迎え、滅び去ってしまうとしても、十字架によって示された神の愛の支配は過ぎ去ることはない。地上の私たちの在り様は、不完全で未完成なものでしかなく、私たちは互いに対立し、憎み合い、傷つけ合わずにはいられない。けれども永遠の神の愛が私たちを支配し、その神の愛によって私たちが満たされる時、そのような私たちもまた、神の愛にふさわしいものへと変えられて行くのである。やがてくるクリスマスの時、そのただ中に神の愛、十字架の主イエスが与えられたことを私たちは思い起こす。

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