2013年12月10日火曜日

[説教要旨]2013/12/1「主の光の中を歩む」マタイ24:36−44

待降節第1主日

初めの日課 イザヤ 2:1-5 【旧約・ 1063頁】
第二の日課 ローマ 13:11-14 【新約・ 293頁】
福音の日課 マタイ 24:36-44 【新約・ 48頁】

教会の暦では、本日から待降節の時を迎えた。アドベントクランツのろうそくに毎週1本づつ火が点けられ、4本灯されたとき私たちは主の誕生を憶える降誕祭の時を迎える。「主の誕生」とは言うものの厳密には「イエス・キリストの誕生日」ではない。キリスト教会はこの日を「イエス・キリストが、私たちの生きるこの世界へとやってこられたことを憶える」時とした。待降節は本来、「私たちが主の降誕を待つ」よりも「主が、私たちのもとに来られる」ということが本質である。主イエスが来られることによって初めて、古い時、古いものが新しくされて行くことが実現されるのである。
本日の日課は、十字架の直前に主イエスが語られた世の終わりについての言葉が選ばれているが、それは同時に、救い主の再臨についての教えであった。たしかにその言葉には、私たちの日常生活が突然に終わりを告げる不安を覚えさせるような表現がある。しかし、同時にそれは私たちを励まし力づける言葉でもある。将来に対して不安と恐れしか見出せず、日常の中に何の希望も見出すことが出来ないために、絶望のあまり自分より弱い者を傷つけ貶めることでしか鬱屈を発散できない、そのような時代の中を人は生きなければならない。絶望しか見出すことが出来ない私たちを取り巻くその日常は永遠に続くのではないか、私たちはそのようにしか思われない時がある。けれども私たちの見えないところで、何の変化も見えないように私たちの日常の中にも、変化は着実に起こっていることを、主イエスは語られる。畑で仕事をしている2人の男のうち、1人が連れて行かれ1人は残される。臼をひく2人の女のうち、1人が連れて行かれ1人は残される。そこに何の区別があるのか、私たちに見出すことは出来ない。しかし、私たちの見えないその背後で、変化は確実に起こっているのである。
主イエスは、人としての痛みと絶望の極みである十字架へと向かおうとする時に、ご自身の到来を語られている。それは、救い主・イエス・キリストは、まさに私たちの恐れ・不安・絶望、そうした闇のただ中に分け入り、そこで闇の力に打ち勝たれ、光をもたらされるために、この地上へと到来されたのだということを私たちに物語る。その主イエスは語る。「目を覚ましていなさい」。主イエスの到来によって、私たちの見えないところで、変化は起こっている。だから、主イエスの到来の出来事を待ち望むこと、それは私たちを支え、励ます、滅びる事のない約束の言葉なのである。
今、私たちは恐れの時代を生きている。しかし、そのような私たちの心の内のその闇のただ中に主イエスはやってこられるのである。それゆえに、そして変わることのないようにすら思えるその日常の背後で、着実に変化は起こっているのである。また私たちは今、主イエスの到来を待ち望むアドベントの時を迎えている。それは毎年繰り返されるクリスマスを待ち望む季節であると同時に、主イエスが再びこの地上にやってこられるその時を待ち望む期間でもある。それは、私たちを取り巻く闇がますます濃くなって行く中、私たちが「目を覚ましていなさい」というその主イエスの言葉によって励まされ、待ち続けることに他ならない。闇の中に生きる私たちに与えられた光、主イエスの到来の時は近いことを憶えて、この時を過ごしたい。

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