2008年10月30日木曜日

[説教要旨]2008/6/1「争いのあるところに和解を」

(聖霊降臨後第3主日)

初めの日課 申命記 30:15-20
第二の日課 1コリント 2:6-13
福音の日課 マタイ福音書 5:21-37

 山上の説教と呼ばれるマタイ5-7章は、物語の中では直接にはイエスの弟子たちを前にして語られている。その意味で山上の説教とは、主イエスを信じる群れに対する教えである。しかし山上の説教で語られている教えを日常生活の中で全て守ることは極めて難しい。古代よりこのことは多くの論争を生んできた。

 しかし山上の説教で最も重要なことは、私たちがこれらの教えを守って、正しいものとなれるかどうかではない。もしそれを欲するならば、私たちはそれを実現することの出来ない自らの限界を思い知るだけである。むしろ主体の転換が必要である。これらの教えを聴く弟子たち、ひいては今聖書を読む私たちがこの場の主体なのではなく、ここで語られている主イエスこそが主体なのである。主イエスが、主イエスを信じ従う群れの中心で語りかけられるからこそ、これらの教えは現実のものとなりうるのである。

 ここでは争いの相手は、兄弟あるいは同行者として示されている。それらの言葉は、争いの相手とは、いわば日常の中で自分自身に最も近い存在であることを示唆する。最も近い相手に私たちは自分と同じように感じ、同じように行動することを求めてしまう。しかし、実際には不可能であることを私たちは知っている。私たちは自分の望みが決して実現することなどないと知りながら、最も近い相手にそれを求めてしまう。そしてそうであるからこそ、私たちは互いに衝突し、対立しあうことを避けることが出来ない。そしてさらに、私たちが自分の意志の力によってそれを解決しようとする限り、そうした衝突と対立を乗り越えることが出来ない。それはいわば溺れる自分を自分で引き上げようとする事と同じだからである。

 だからこそ、もしそこに宥和と和解が生じるのだとするならば、それは主イエスが私たちの間で語られているからに他ならない。私たちは、人の言葉ではなく、主イエスの言葉が私たちの間で語ることを求めなければならない。主イエスは十字架と復活によって、人の思いと理解を超えた、神の和解の業を示された。キリストはわたしたちの平和であり、その肉によって敵意という隔ての壁を取り壊された(エフェソ2:14)。争いのあるところに和解を求めるということ、それは主イエスが私たちの間に立ち、私たちの対立と衝突をとりなされることを求めることなのである。

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