2008年10月30日木曜日

[説教要旨]2008/6/15「思い悩むな」

(聖霊降臨後第5主日)

初めの日課 イザヤ 49:13-18
第二の日課 1コリント 4:1-13
福音の日課 マタイ 6:24-34

 本日の短い福音書箇所の中で、「思い悩む」という言葉が6回も用いられている。それは私達人間にとって「思い悩む」ということが、どれほど大きな問題であるか、ということを物語っている。私達人間は思い悩まずに生きることが出来ない。

 思い悩みの原因として、食べ物、衣服がここでは触れられている。たしかに衣食とは、人間生活にとっては不可欠な要素である。しかし命と食べ物、体と衣服が、主イエスの言葉の中で比べられる。食べ物、衣服、それは、もともとの原料は自然のものではあるが、それが「食べ物」「衣服」となるのは、いわば人の手によってである。その意味では、思い悩みの原因は人の手によって作られたものである。それに対して、命と体を作ることは人間の手によっては不可能である。命を作られ、私達に体を与えられるのは、創り主である神だからである。

 空の鳥、野の花、それらは神の作り出したままの姿で生きている。ソロモンの栄華は、人間の目から見るならば豪華なものであったが、その栄華は一時のものに過ぎなかった。むしろその栄華こそ、思い悩みを生み出す源であった。ソロモンを連想させる、エルサレムの王、ダビデの子の口を借りた旧約聖書のコヘレトの言葉は、「しかし、わたしは顧みた。この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」と語る。私達の心を思い悩ませるものは、実に、いずれ過ぎ去ってゆくものでしかない。しかし、その過ぎ去ってゆくものによって、私達の日常生活は支配されてしまっており、それらのために思い悩まずにいられないのである。それに対して、野の花の美しさはソロモンの栄華が失われた後も、変わることなく人々の心を慰める。

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と主イエスは語られる。神の国も神の義も、人間の手によらないもの、創り主である神の手によるものである。そして、そうであるからこそ永遠のものである。それらは、私達の思い悩みを生み出している私達の日常の生活の外側にある。無限の神の愛の前では、限られた世界・限られた時間の中でしか物事を測ることの出来ない、人間の尺度はもはや意味を持ち得ない。そして、この無限の神の愛、それはこれらの言葉を語られる主イエスその方に他ならないのである。

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