2008年10月30日木曜日

[説教要旨]2008/5/4「平和の証人となる」

(昇天主日)



初めの日課 使徒1:1-11

第二の日課 エフェソ1:15-23

福音の日課 ルカ福音書24:44-53



 聖書には、復活された主イエスは、弟子たちの前で天に昇られたと書かれている。事の次第はどうであれ、それはいわば、地上における主イエスの不在の時である。それは、主イエスご自身がこの地上で活動された時が終わったことを意味している。



 しかし主イエスが天に昇られたということは、単に主イエスの不在を意味してはいない。天は全ての人の上に、いつでも存在している。むしろ、限られた瞬間・限られた場所にとどまらず、天にある主イエスは、いつ・どこででも、全ての人と共におられる。それはペンテコステ(聖霊降臨)を経て始まる、聖霊の時・教会の時の徴である。天に昇られた主イエスは、「祝福しながら」天に上げられたと、ルカ福音書は語る。教会の時において、主イエスの祝福は今もそして常に私たちに注がれている。教会はこの主イエスの祝福のもとで、主イエスの証人になる。



 本日はアジア・サンデーでもあり、今年は特に「アジアの平和と憲法九条」が主題として与えられている。主イエスの祝福は世界の全ての人に与えられた。キリストは隔ての壁を取り壊し、平和の福音を告げ知らせられた。そこでは私たちはもはや外国人でも寄留者でもなく、一つの霊に結ばれた神の家族である。聖書の語る真の平和とは、自分だけが満たされ、平穏な状態となっていることを意味しない。そうではなく、互いの絆が固く結び合わされることである。その絆は、十字架と復活そして天に昇られた主イエスによって結び付けられている。



 「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と弟子たちは復活された主イエスに尋ねる。いわば力によって、自分たちの国を再興することを夢見ている弟子たちに、主イエスはむしろ「あなたがたは、地の果てにいたるまで、わたしの証人となる」と語る。それは、国境の内側に留まる思考から、境界の外側に立つ思考へと、弟子たちを押し出し、隔ての壁を取り壊す言葉である。



 地の果てにおいて、主イエスの平和の福音の証人になるということ、それは「内」に留まる私たちのあり方に不安をもたらす。しかし私たちが「外」の視点に立つ時、私たちは主イエスの平和の福音にもっとも近づくことが出来るのである。力によらない平和、それは私たちが主イエスによって取り壊された隔ての壁の外側に立ち、主イエスの祝福を分かち合う出来事に他ならない。

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