2008年12月26日金曜日

[説教要旨]2008/12/21「暗闇にさす光」

待降節第4主日

初めの日課 ゼファニヤ 3:14-17 【旧約・ 1474頁】
第二の日課 フィリピ 4:2-7【新約・ 365頁】
福音の日課 ルカ 1:67-79 【新約・102頁】

 洗礼者ヨハネの誕生に際して、口を閉ざしていた父親ザカリヤは聖霊に満たされて預言する。「これらは神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道へと導く」。それは、来るべきキリストの誕生を示していた。
 17世紀の画家、レンブラントが描く主イエスの誕生の絵がある。そこでは、暗闇の中で家畜小屋だけが明るく描かれている。その光の差す元を辿ってゆくと、闇に閉ざされた家畜小屋の中から光が差していることがわかる。しかし、さらによく見るならば、それは小屋の中のランプやたき火から光が放たれているのではなく、生まれたばかりの主イエスが光の源として描かれていることがわかる。闇の中にさす光、それは主イエスご自身なのである。主イエスは、闇のそのただ中に光をもたらされたのである。
 誰しもが、心の中に闇を抱えている。そしてそれはただ個人の持つ闇なのではなく、その社会そのものが抱えている闇の一部でもある。不安定な状況の中で働く労働者が解雇されることを嘆く私達は、それが我が身に起こることに怯え、また少なくともまだ自分がそうでないことに安堵する。社会に渦巻く不安と恐れの中で、弱い者がさらに弱い者を苦しめ、互いに憎み合い、対立する。私の心の中の闇と、私を取り巻く世界の闇は、その根底においてつながっているものなのである。その闇の中で、私達は孤独と不安に震えながらも、他者を恐れ、一人で留まることが出来るだけである。
 しかし、その闇のただ中に、主イエスはやって来られる。その出来事が起こる時、私達を隔てている闇は打ち砕かれる。そこにはもはや、もっともらしい理屈など不要である。主イエスが、この世に来られたという出来事だけで、既に十分なのである。闇に閉ざされたこの世に、そして闇に閉ざされた私達の内に主イエスは光をもたらされる。その光は、十字架の死と復活によって、この世の闇を打ち砕かれた方がもたらされた光である。その光は私達を孤独の闇から解き放つ。

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