2008年10月30日木曜日

[説教要旨]2008/5/25「すべてを照らす光」

(聖霊降臨後第二主日)

初めの日課 イザヤ 58:1-10
第二の日課 1コリント 2:1-5
福音の日課 マタイ福音書 5:13-16

 「あなたがたは地の塩・世の光である」と主イエスは語る。主イエスは「地の塩・世の光になれ」と語るのではなく、既に「そうである」ものとして直接的には弟子たちに対して、語っている。そのことは、「主イエスに従う群れたるものはそのようであらねばならない」ということではなく、主イエスを救い主として信じるということそのものが、既に「地の塩・世の光である」ということを本質として内に含んでいるということを意味している。

 主イエスを救い主キリストとして信じること、それは人を苦しめ、悩ませる「闇」の力は決して永遠に続くものではないということを確信することである。主イエスは十字架で殺されたにもかかわらず、3日目に墓の中からよみがえられた。たとえ全てが空しく無駄に終わったように見えたとしても、神が備えられる希望の力は、決してそこで終わることはないということを、主イエスの死と復活は示している。

 私たちの生活の中では、どこにも希望を見出すことの出来ない時がある。そのような時、あらゆる闇が周りを取り囲み、無味乾燥な、無為な絶望の日々がただ過ぎてゆくだけに思えてしまい、その絶望の時が永遠に続くかのように思える時がある。しかし、私たちが主イエスを救い主として信じるならば、私たちは既に「地の塩・世の光」である。それは決して味の無い、暗闇につつまれただけの生で終わることはない、ということを主イエスは語られている。

 また塩も明かりも、それ単独では、人間の生活の中では用いられることは無い。塩だけを食べるものはおらず、他の食品とともにあって初めて塩として意味を持つ。また明かりを直接眺めることはなく、他のものを光によって照らすことで、光はその意味を持つ。塩も明かりも、他者と共にあることで初めて、その意味を持つ。地の塩・世の光であるキリスト者もまた、この世にあって他者との関わりの中で始めて、その塩・光としての本質を発揮することができる。「山の上にある町は、隠れることができない」。つまりこの世界に起こるさまざまな苦難に身をさらし、その中で希望を捨てることなく生き抜くことが、キリストを信じることに他ならない。

 すべてを照らす光、それは主イエスの十字架と復活への確信である。それは私たち自身の意志の力ではなく、私たちに恵みとして与えられた信仰なのである。

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