2015年4月22日水曜日

[説教要旨]2015/04/12「信じない者ではなく」ヨハネ20:19-31

復活節第2主日

初めの日課    使徒言行録 4:32-35
第二の日課    ヨハネの手紙一 1:1-2:2
福音の日課    ヨハネによる福音書 20:19-31

先週、私達は主の復活を祝った。そして本日の福音書では、いわばヨハネ福音書における聖霊降臨の出来事が、家の中に集まっていた弟子たちの復活の主イエスと出会いの中で語られている。主イエスの十字架での死によって、弟子達は失意と恐れの中に突き落とされていた。彼らは自分達もまた主イエスと同様に逮捕されることを恐れて、部屋に鍵をかけて閉じこもっていた。ヨハネ福音書の物語の筋に従えば、彼らは既に、墓は空であった知らせを聞いていた。しかし、どこまでも従うという約束を裏切ってしまった彼らは、主イエスと再び出会うことをむしろ恐れていたのかもしれない。さらに彼らは、仲間と共に部屋の中で隠れている時も、裏切りと密告を疑い、互いを信頼出来なくなっていたのではないか。彼らの心の扉は固く閉ざされ、共に歩んできた仲間からの「主イエスの墓は空であった」という知らせを喜びの報告として受け入れるなど出来なかった。
その彼らの真ん中に主イエスは突然立ち現れ、「あなた方に平和があるように」と呼びかける。それは、恐れと不安との中で心を閉ざす弟子達に対する赦しと和解の言葉であった。そしてその手と脇腹の傷は、まさしく十字架に架けられた方がここにおられるということを示すものであった。十字架の主が共におられるということは、変わるはずのない彼らの閉塞した現実を変える、新しい命が造り出され、与えられることを示す出来事であった。主イエスは、弟子達に息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と語られる。創世記で神は土に息を吹き込み、命ある生きる者とされた。弟子達もまた、復活の主イエスに出会い、息を吹きかけられる。それは、彼らが新たに創造された命を与えられたことを意味していた。人々を恐れ、部屋に、また自分の心に閉じこもっていた弟子達は、「聖霊」を与えられ、全世界へと主イエスの十字架と復活を宣べ伝えるものへと変えられたのだった。
最初の出来事の際に居合わせなかったトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と主張する。その言葉は、今の自分の状況が変わることなどありえないのだと訴えているようにも響く。ところが8日目の日、そのトマスの前に主が現れ、語りかけられる。主イエスはトマスに「見ないのに信じる人は、幸いである」と語られる。「見た」かどうかよりもむしろ、主の言葉を「聞く」ことが、私たちのうちに「信仰」と「信頼」を生み出すものであることを、私たちは知る。
復活の主イエスが弟子たちと共におられたのは、いずれもが週の初めの日、つまり日曜日であった。この週の初めの日が、教会において「主の日」としての礼拝の日となってゆく。その意味で本日の日課は、私たちが礼拝のために集められる時、その真中には主イエスが立ち、「平和」を与えられ、神の息をもって、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と語りかけられていることを伝えている。
主の復活を祝うこの季節がめぐってくる時、私たちは、復活の命は十字架の死を乗り越える力であることに、常に立ち返ります。そしてこの復活祭に続く季節、主イエスの十字架と復活の命を受け取った私たちは、自分たちもまた新しい命を与えられていることに、今一度立ち返るのである。

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