2015年4月16日木曜日

[説教要旨]2015/03/15「神は世を愛された」ヨハネ3:14-21

四旬節第4主日

初めの日課 民数記 21:4-9
第二の日課 エフェソの信徒への手紙 2:1-10
福音の日課 ヨハネによる福音書 3:14-21

人間の欲望の根本にあるもの、それは「死を遠ざける欲求」である。私たちは自分たちの領域から死を締め出そうと努力する。ところが、少しでも死から遠ざかろうとすることは、他人を利用し、また蹴落としていかなければならない。その結果、人間同士の間に避けることのできない争いを生み、やがて私たちは神さえも、他者の命を支配するための手段・道具としてしまうことになる。自分だけの命が豊かになろうとする時、自分だけが正しくあろうとする時、私たちの間には、争いと神への裏切りが生まれる。そうした意味では、人間が自分自身の力で自分自身を正しいものにしようとすること、命を強めようとすることの中に、人間の深い罪が潜んでいると言える。ですから、より豊かに、より正しく生きようと求める神に対する重大な背信となり、自分自身を滅びと死に至る道へと追いやってしまうのである。
本日の福音書では、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。」とある。「信じない者」にとって、終わりと限界のある人間の生は、呪われたものでしかない。それゆえに「信じない者」は、他者の命と、さらには神までも利用しようとしてしまう。しかし他者の命の否定の行き着く先は自らの命の否定でしかない。一方、「信じる者は裁かれない」と聖書が語る時、「信じる者」にとっては、他人を死に追いやってまで自分自身を生かすことはもはや無意味なものである。なぜならば、私たちがキリスト・イエスと共に生きるということは、命とは捨ててこそ与えられるものであるということを確信して生きるということに他ならないからである。それゆえに「信じる者」にとっては、限界のある自分の生はもはや、忌まわしい、呪われたものではなく、感謝と喜びに溢れたものなのである。
3:17には「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とある。永遠・全能の神は、命の限界のある一人の人、主イエス・キリストとなった。主イエスは、人としての生の限界に向かってひたすら生き、そして死を超えて再び新しく生きた。主イエスは、徹底して弱さの中に生き、その結果、十字架につけられたが、その十字架は決して全ての終わりではなく、新しい命の始まりであった。神は、世を愛されたがゆえに、一人子主イエスの死と復活を通じて、新しい命の約束を私たちに与えられたのである。
私たちは、自らの限界、不完全さ、弱さといったものを、恥ずべきもの、忌まわしいものとして、捉える。しかし主イエスによって示された、新しい命の約束は、私たちの弱さを通してこそ、より強く示される、と聖書は語る。なぜならば、この世を愛された主なる神は、私たちの弱さを愛されているからである。この私たちの弱さのために、神はそのひとり子を、私たちのために与えられたのだった。主イエスが、この地上における命の限界、弱さの極みである、十字架へと向かうのは、ご自身の十字架の出来事を通して、私たちの弱さを担うためであった。そして、その弱さこそが、主なる神から新しいの命約束に他ならない。まさにその意味で、私たちは自らの弱さ、苦しみ、哀しみに近づくとき、最も主イエスに近づいているのあり、同時に希望と喜びにも最も近づいているのである。

0 件のコメント: