2015年4月16日木曜日

[説教要旨]2015/03/01「十字架の主イエスに従って」マルコ8:31-38

四旬節第2主日

初めの日課 創世記 17:1-7、15-16
第二の日課 ローマの信徒への手紙 4:13-25
福音の日課 マルコによる福音書 8:31-38

本日の日課は、マルコによる福音書において、最初の、主イエスが、ご自身の受難について弟子達に語られた箇所となっている。そしてその直前には、弟子の筆頭であったペトロが、主イエスを「メシア」と言い表す場面が描かれている。主イエスは弟子達に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、すなわち、イエスに従う者としてあなたはどうこたえるのかが問われている。これに対してペトロは、「あなたはメシアです」と答える。メシアとは「油注がれた者」という意味で、神から特別な任務を与えられた者のことである。「油を注がれた者」すなわち「メシア」は、この世に神の国をうち立て、イスラエルの民を異邦人の支配から解放する「解放者」・「救い主」という意味で用いられることが、主イエスの時代には多くなっていた。ペトロの答えは、イエスが何百年もの間待ち望まれていたその人物であることを、言い表すものであり、それは、地上での新しい支配者として君臨する存在、かつて王国を繁栄させたダビデ王の再来のような存在としてのメシヤが前提としていた。しかしこのペトロの答えに対して主イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。神の愛する子である「人の子」、すなわちわたしは、待ち望まれた「メシア」である。しかし、それは権力の中枢へと向かい、暴力や武力、金の力や権力によって、この地上の世界を支配する存在ではないことを、主イエスは語る。この世の王の支配とは、この世のあらゆる力を駆使して、他者から奪い取り、外の世界の荒廃と困窮と引き替えに、自分達の内側を満たし、安定と充足を確保することであった。それに対して、主イエスの福音、すなわち十字架と復活の出来事は、力の高みへと向かうのではなく、低さの極みへと向かい、奪うのではなく、与えることを通して、滅びから命へと向かう道筋を私たちに示されたのだった。
暴力・武力・金の力・権力によって、押さえつけ、奪い取り、栄華を思うがままにする。けれども、聖書が描き出すイスラエルの歴史は、そうした様々な力を手にした者は、やがて必ず全てを失うことを、そしてそれは人の力によってはどうすることもできない真理であることを物語る。それに対して主イエスは、力によって欲望を満足させ、滅びへとかならず突き進むしか無い道ではなく、与え、失うことによって初めて得ることの出来る命の道、救いと和解と解放への道筋を示される。それは十字架の受難へと向かう主イエスの歩まれた道に他ならない。
主イエスはご自身の命を、十字架の死によって、この世の苦難と痛みの中で生きる私たちの新しい命として与えられた。十字架によって私たちに与えられた新しい命とは、奪い合い憎しみ合うことから私たちを解き放つ命なのである。抑圧し、奪う者の後には、傷つけ合い、憎み合う命しか残されていない。しかし十字架に向かう主イエスの後には、救いと和解と解放へと向かう命の道が備えられている。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という主イエスの言葉は、救いと和解と解放へ向かう命の道を歩むことを私たちに呼び掛けている。

0 件のコメント: