2015年4月16日木曜日

[説教要旨]2015/03/29「本当に、この人は」マルコ15:1-47

四旬節第6主日

初めの日課 イザヤ 50:4-9a
第二の日課 フィリピ 2:5-11
福音の日課 マルコ 15:1―47

今週私たちは受難週を迎える。本日は礼拝の始めに枝の典礼として11章のエルサレム入城の箇所を読んだ。主イエスのエルサレム入城は歓呼をもって迎えられるが、それは人々が待ち望んでいた新しい王メシヤの姿を指し示している。しかしその真の姿は、人々の目にはまだ隠されている。主イエスが真の救い主であることが明らかになるのは、エルサレムでの十字架の出来事を通してであった。
本日の礼拝では枝の典礼に引き続いて、15章全体を読み、主イエスの受難と死の出来事を憶える。この物語では主イエスの称号が様々に言い表されている。判決を下す権威を持つローマ総督ピラトが尋問する時、主イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれる。ピラトが群衆に対して、主イエスの釈放について問いかける際も、主イエスは「ユダヤ人の王」と呼ばれているが、問いかけられた人々は、その「王」を拒否し続ける。その後、兵士達に引き渡され、暴力に蹂躙される間も主イエスは「王」と呼ばれ続ける。そして何よりも、十字架につけられるその罪状書きはまさに「ユダヤ人の王」というものであった。ピラトやローマ兵から見るならば、ユダヤはローマ帝国の属州に過ぎず、自分達こそが支配者であり、したがって自分達以外には真の意味での支配者=王など存在しない。ましてや、本来であれば「王」は政治権力を持つ存在であるはずなのに、彼らの前に立たされた男は、弟子達にすら見捨てられた哀れな力無き存在でしかない。受難物語の中で、「王」という称号と、主イエスのその外見は益々乖離していくばかりである。政治的・軍事的な力を持つ者達に加えて、さらにユダヤの宗教的権威者達もまた十字架につけられた主イエスを「メシア、イスラエルの王」と言ってあざ笑う。権威を持つ者達にとって、十字架の上から降りることの出来ない無力な存在など、神の遣わされたメシアとして認めることことは出来なかった。
一方の主イエスは、ピラトの「お前がユダヤ人の王なのか」という尋問に、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた後は、十字架の上で叫ばれるまで沈黙を通され、その苦しみに身を晒し続けられる。それこそ、主イエスが著そうとされる王・メシヤの姿であった。主イエスが王であるのは、人々が期待し思い描いたような姿で力を発揮するからなのではなかった。むしろそれは、イザヤ書が描く「苦難の僕」の姿に他ならなかった。
15章の終わりで主イエスが大声をあげて息を引き取られると、神殿の最も聖なる場所を人の目から覆っていた垂れ幕が引き裂かれる。それは隠されていた最も聖なるものがその姿を人々の目に現したことを意味した。その出来事と共に、十字架の傍らに立っていた百人隊長はは、「本当に、この人は神の子だった」と語る。それがはたして、信仰告白だったのか、それとも嘲笑の言葉だったのか、それはこの言葉を受け取る人によって変わるであろう。それはピラトの言葉に「それはあなたが言っていることです」と主イエスが応えられたのと同じである。しかし、私たちは今や、最も聖なるものが、私たちの目に明らかとなったことを知っている。私たちにとって、十字架から降りることなく、死の苦しみを受けた方こそが、真の救い主メシヤ、真の平和の王キリストであることを知っているからである。本日から始まる聖週間を、主の受難を、そしてまたやがて来る復活の時を憶えて歩みたい。

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