2015年4月16日木曜日

[説教要旨]2015/04/05「あの方はここにはおられない」マルコ16:1-8

主の復活

初めの日課 イザヤ書 25:6-9
第二の日課 コリントの信徒への手紙一 15:1-11
福音の日課 マルコによる福音書 16:1―8

主イエスの復活の喜びを分かち合うために今日ここに集っている。本日の福音書であるマルコ福音書では、他の福音書に比して極めて短い、やや乱暴とも言えるような復活の出来事が報告されている。そこではただ、「墓は空であった」ということが告げられる。単純でありながら、この物語は非常に重大な矛盾を含んでいる。なぜならば、空の墓を発見した女性たちは「誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」という報告をもって、福音書は結ばれているからである。もし彼女達が本当に誰にも何も言わなかったのだとすれば、この福音書は書かれるはずがないことになる。したがって、結果としては、この出来事は彼女たちだけの秘密には留まらず、多くの者によって共有されたことが、大前提となっているのである。そのことはつまり、「キリストは共におられる」という体験をした者達がいたことを意味している。自分達に先立ち、導き、自分達を閉じられた部屋から押しだしてゆかれるキリストが自分達と共におられる、という経験があったがゆえに、女性たちが恐ろしさゆえに黙っていたとしても、それを彼女達は自分達の秘密に止めておくことはできなかったのである。
女性たちは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていた通り、そこでお目にかかれる。」という言葉を聞く。「先にガリラヤへ行かれる。」というのは、時間的に早くという意味で訳されているが、実際には、「先だち導いて」という空間的な意味でも解釈できる。そう受け取るならば、「かねて言われていた通り、あの方は、あなたがたを先立ち導いてガリラヤへ行かれる。」という意味に受け取ることも出来る。
最初の教会は都エルサレムで始まったとされているが、マルコ福音書は、敢えてガリラヤへ向かうことを伝えている。ガリラヤとは、都によって収奪される土地、貧しく弱い者達が、あえぎながら生きなければならない地であった。そしてそここそが主イエスの地上において神の国の到来を宣べ伝え、癒し、与え、祈った地であった。その意味でガリラヤへ向かうということは、神の国の福音の宣教へと向かうことそのものに他ならなかった。そして弟子達は、かつて主イエスがなされたと同じように、自分達が神の国の福音を伝え、苦しむものと共に苦しみ、喜ぶものと共に喜び、分かち合い、支え合う時、そこに主イエス・キリストが共におられる、という決定的な体験をすることとなったのであった。墓は空であり、「あの方はここにはおられない」という喪失の体験を超えて、あの方は「わたしたちを先立ち導いてガラヤへ行かれる」という体験が自分のうちに起こった時、その二つの体験を結びつけるものが「復活」という出来事であることを、彼らは見出したのだった。
主の復活の出来事はこの後、教会を形作る。その教会は、この地上のさまざまな帝国が栄え滅び去る間も姿を変えつつ今、私たちのもとへと続いている。それはまさに、ここにはおられないはずの主が、私たちと共におられ、私たちを先立ち導き、ガリラヤへと押し出して続けているからなのである。
何も無いところから出発する時に、私たちは、十字架の死から甦られたキリストが、私たちと共にいつもおられることを知る。イースターの喜びとは、私たちを先立ち導かれるキリストが、何もないところか出発する私たちと共におられるという喜びに他ならない。

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