2015年4月16日木曜日

[説教要旨]2015/03/22「一粒の麦が地に落ちて」ヨハネ12:20-33

四旬節第5主日

初めの日課 エレミヤ 31:31-34
第二の日課 ヘブライ人への手紙 5:5-10
福音の日課 ヨハネによる福音書 12:20-33

本日の物語は、過ぎ越の祭りの時に合わせて主イエスが都エルサレムに上り、都に迎え入れられた直後の出来事として語られている。さまざまな奇跡をなしたこのイエスという男を、ギリシア人達もが関心を持ち「イエスを見たい」と思う。その期待に対して主イエスが語ったのは「人の子が栄光を受ける時が来た」という言葉であった。しかし「栄光を受ける時が来た」という言葉に続いて主イエスが語るのは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである」であった。「栄光の時」というならば、人々の期待通りの道筋を通り、その期待を着実に実現し、強く大きくなっていく、そのような「時」を思い描いていたことだろう。しかし、主イエスが語られる「時」は、人々が期待する「栄光の時」とはおよそかけ離れた「地に落ちて死ぬ」ということであった。
続いて主イエスは語られる。「だが死ねば多くの実を結ぶ」。失うことによってこそ、多くの実が結ばれる。その様な時がまさに今やってくる、そのように主イエスは語られる。一粒の麦が死ぬということ。それは、農村文化の中では、一粒の麦がそのもともとの形を失ってしまうということを意味していた。たしかに、麦は土に落ちて、もとの形を失うこととなる。しかし、季節が巡ると形を失った麦は成長し、実りをもたらすこととなる。今ある形が失われること、今自分が知っている価値が失われること、それは私たちの目から見るならば、損失であり、価値無きことである。しかしそうであるからこそ、豊かな実りをもたらす時が来るということを、主イエスは語られる。
そしてまさにその「時」が、主イエスが都エルサレムで十字架において処刑され、その死から甦られたことによって私たちのもとにやってくることとなる。それはまさに、神によって備えられた栄光の時、主イエスが、十字架へとかかるその時が来たことを主イエスは語る。それは、私たち人間が期待し、考えるような「栄光の時」ではなく、むしろ失うことを受け入れる時であった。失われることが、多くの実を結ぶこととなる。それは、私たち人間が思い描くような、過ぎゆく時の内には起こりえないことである。しかし、主イエスの出来事は、私たちの思いを超えたところで、新しい命を創り出す時となった。そして、新しい命出来事は、決して過ぎゆくことのない時として、今も、私たちのところにおいて起こる、そのような時なのである。たしかに、主イエスの十字架とは、人の目から見るならば、期待外れでありお粗末な結果でしかない。それはやがて、人々の記憶の彼方へと追いやられ、忘れ去られてしまうような出来事であるようにしか見えないであろう。けれども、その十字架の出来事は、まさに、私たちの思いを遥かに超え、時代をこえ、場所をこえ、全ての人の一人一人のその人生へと働きかけることの出来るような、そのような時となったのである。
私たちも今、主イエスの十字架を憶えて、復活を待ち望む「時」を過ごしている。私たちの思いを遥かに超えて、希望の光に満ちた「時」が私たちのもとにやってくる。その光は、私たちを取り囲む闇を打ち負かされ、私たちに真の命の実りをもたらされる。

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