2015年4月16日木曜日

[説教要旨]2015/02/22「荒れ野の時を超えて」マルコ1:9-15

四旬節第1主日

初めの日課 創世記 9:8-17
第二の日課 ペトロの手紙一 3:18-22
福音の日課 マルコによる福音書 1:9-15

教会は「灰の水曜日」を迎え、四旬節に入った。私達は復活祭までの日曜を除いた40日間を、主イエスの受難を憶える時として過ごす。この四旬節を過ごす私たちは、自らの信仰の中心、すなわち主イエスの十字架の死と、その死からの復活ににあるものへと思いを向ける。そのことを通して、この地上に生きる私たち自身に与えられた、新しい復活の命を思い起こす時を過ごして行くこととなる。
本日の福音書では、主イエスの洗礼の出来事が再び取り上げられる。そして、この主イエスの洗礼の出来事に続いて、直ちに主イエスは霊によって荒れ野へと導かれ、そこで40日間を過ごされることとなる。そして荒れ野で野獣と過ごし、悪魔の誘惑を斥けられた主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、神の国の福音の宣教を始められる。これらは、十字架へと向かう主イエスのその歩みの始まりにおいて、いずれもが欠けても成り立たないものとして描き出される。したがって、荒れ野での40日間もまた、決してただ不毛な時を過ごしたということではなく、神の国の到来が宣べ伝えられ、その言葉が実現するためには、荒れ野での時が無ければならなかったと言える。
そのような視点でこのマルコ福音書の1章を最初から振り返るならば、荒れ野というものが二つの視点で取り上げられていること気付かされる。3-4節では、荒れ野という場所は、洗礼者ヨハネの働きと関係づけられ、いわばそこは神へと立ち帰り、新しい命の始まりを告げる場所、つまり希望の始まる場所として描かれている。荒れ野が希望の始まる場所となるために、主イエスの荒野での試練は、神の救いの業において不可欠なものであった。「神の愛する子」である主イエスが、地上での救いの宣教を始めるにあたって、この40日間の荒れ野を超えてゆかなければならなかったのだということを、聖書は私たちに告げているのです。
現代を生きる私たちもまた、神無き不毛の地としての荒れ野の時を生きていると言える。しかし、その荒野は、主イエスが既に、野獣と共に過ごし、サタンを斥けた場所でもある。そして、試練の時を終え、救いの宣教を開始された主イエスは、その救いの業の完成として十字架へと向かわれた。救い主イエスは、ご自身の十字架へ向かう中で、私達の荒て野を共に歩んで下さっている。そして、その復活によって、死の恐怖と孤独に怯える私たちに、消えること無い希望の光を与えられた。共におられる主イエスによって、私たちの荒れ野もまた、復活の命へと続く時となったのである。
現代の荒れ野で彷徨う私達の叫びと祈りを、神は必ず聞き届けられる。なぜならば、そのためにこそ、荒れ野において既に主イエスは闇の力に打ち勝たれ、その十字架の死と復活によって、私達に救いを与えられたからである。実に、神の国を宣教する働きの全ては、荒れ野において備えられる。荒れ野での孤独と欠乏とを通して、人ははじめて真実の命を見出すことが出来るのである。
この四旬節の間、私達もまた、私達自身への荒れ野へと向かい、主イエスの十字架と復活への道を思いながら、死から命の希望への道を歩んでゆきたい。

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