2013年9月4日水曜日

[説教要旨]2013/08/18「分裂と対立を超えて」ルカ12:49-56

聖霊降臨後第13主日

初めの日課 エレミヤ 23:23-29 【旧約・ 1221頁】
第二の日課 ヘブライ 11:29-12:2 【新約・ 416頁】
福音の日課 ルカ 12:49-56 【新約・ 133頁】

 本日の福音書の日課で語られる「火」という表現を聴くと私たちはおそらくまず破壊的な裁きの炎を連想する。しかしルカ福音書の続巻である使徒言行録の冒頭では聖霊降臨の出来事として天から下る炎が語られている。聖なる神の霊の炎によって浄められた弟子たちは、福音を世に伝える者として新たな命を与えられた。火は恐るべき裁きの炎であるのと同時に、聖なる力によって浄められ、新たな命が燃え立つ様子をも表す。火がもつこの二つの性質は、聖書が語る「世の終わり」の持つ両義性と重なる。確かに世の終わりは一面では裁きと滅びを語るが、それは命を傷つけ抑圧する古い時代の力が裁かれ滅び去ることを告げる。そして他面では、全ての涙と悲しみが報いられ、神の愛と正義が満ちる場が実現することをも示す。その意味で、主イエスが地上に投じられる火とは、古い世を新しい世へと造り替えるものなのである。
 さらに本日の日課では、世を新たにする主イエスの炎は、主イエスが受けねばならない「洗礼」と結びついている。エルサレムへと向かう旅の途上で主イエスが語られる「受けねばならない洗礼」とは、主イエスを待ち受ける十字架の出来事に他ならない。世を新たにする主イエスの炎は、十字架の出来事として私達が生きるこの地上にもたらされる。主イエスはその十字架の死によって私たちにご自身の命を分かち合われ、しかしその死に留まらず永遠の命への道を私たちに開かれた。主イエスの十字架こそが、私たちの生きるこの地上の世界を、新たなにしうる唯一のものなのである。そうであるならばこそ、なぜ主イエスは十字架が分断と対立とをもたらすと語られるのだろうか。
 実に、主イエスのもたらす平和は根本的かつ決定的なものであり、一時的な、いずれ変わりゆくものではない。主イエスのもたらす平和とは、生きる術と力を奪われ抑圧され差別された者達のその涙と呻き・嘆きの声に報いられるものなのである。この主イエスの真の平和が私たちのもとにもたらされる時、そこで問われるのは、主イエスの平和が私たちにとって居心地が良いかどうかなのではなく、全く逆に、私たちの方が主イエスの平和にふさわしいものであるかどうかが問われる。
 私たちが生きているこの地上の世界においては、人は自分の既得権益が脅かされることを恐れ、悪がどこから生じているのかを明かにすることを好まない。私たちが生きているこの地上の世界は既にその内側に決定的な歪みと断絶を抱えていながら、私たちはそれに向き合うことを恐れている。むしろ、歪みも断絶もあたかも存在しないかのように隠し、それによって生み出される負債と矛盾を他者に、あるいは未来に押しつけようとしている。それこそが私たち人間の姿に他ならない。しかし主イエスはその言葉によってこの分裂と対立をその根底まで明らかにし、ご自身の十字架によってその命を与え、全く新たなものとされる。私たちに主イエスがご自身の命を分かち合われたことによって、私たちは自らの内にある分断と対立に、恐れることなく向き合い、乗り超え、新たな世界・新たな分かち合い支え合う命を生きることが出来るのである。真の平和とは何かを主イエスの言葉から聞きつつ、主イエスの十字架と復活によって新たな命を生きることを求めつつ、この残された8月の時を歩みたい。

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