2013年9月4日水曜日

[説教要旨]2013/09/01「キリストの祝宴においては」ルカ14:1、7-14

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 箴言 25:6-7a 【旧約・ 1024頁】
第二の日課 ヘブライ 13:1-8、15-16 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 14:1、7-14 【新約・ 136頁】

 十字架の待ち受けるエルサレムへの旅の途中、14:1で主イエスは安息日にファリサイ派の議員の家に食事に招かれ、そこで病気の者を癒し、続いて宴席の譬えが語られる。主イエスの癒しの出来事は神の国の先触れであった。したがってここでは、主イエスが共にいる食卓が神の国の宴席に譬えられていることが示唆され、十字架の死に至るまで自らを低くされた、主イエスの生き様に私たちが倣うということこそが、神の国の宴席で欠かすことのできない振る舞いとして示されている。主イエスは十字架へと向かう途上で、抑圧され排除された人々へ関わり、食卓を共にされた。この世の価値観によって差別され、排除され、抑圧されてきた者たちにとって、イエスと出会い、招かれ、食卓を共にするという出来事は、自らを苦しめるこの世の力からの解放の出来事に他ならなかった。まさにその意味で、主イエスとの食卓は、救いと解放の出来事であった。そして本日の福音書では、この主イエスの言葉を聞く私たちもまた、主イエスの謙虚さに倣い、低みへと向かいつつ、この世において招かれざる者を招くことを教えられる。
 ここに、主イエスの捉え方についてのルカによる福音書の特徴が現れている。すなわち、無条件に私たちに出会い、招き、私たちを苦しみから解放し、救われる方としての主イエスの姿が示される一方で、同時に、私たちがそのみ後に続くことによって初めて出会うことができる、目指すべき模範としての主イエスの姿が重ね合わせられている。それゆえに、この同じ主イエスの言葉は、それを聞く者の立場によって、その受け取り方が異なってくることとなる。つまり、「お返しができない」「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」たちにとって、主イエスの言葉は無条件の救いの言葉であり、招きの言葉である。しかし同時に、人を招く余裕のある者、あるいは、盛大な宴会に招かれるような地位と名誉を持っている者にとっては、それは警告と戒めの言葉となり、主イエスとの出会いを求めて、主イエスに倣い、そのみ後に従い、低みへと下って行くことが促されることとなる。
 そのことは福音書をまとめたルカの教会の背景と、私たちの教会がおかれた状況が似ていることを思い起こさせる。おそらくルカの教会は、弱小集団にすぎないことを嘆きつつも、既に、決して困窮しているわけでも、特別に抑圧されているわけでもない、そのような集団となっていたのであろう。しかしそのような中で、主イエスの言葉から救いのメッセージを受け取り、それを伝える教会の使命は何かを見いだそうと模索していたのであろう。
 もし教会が現に今持っているものだけに目を向けるならば、ただその小ささと弱さを嘆き、孤立の内に取り残されるだけである。しかし教会が、抑圧され、言葉を奪われた人々に解放をもたらされた主イエスのみ後に続くならば、あの神の国の祝宴の喜びと希望に満たされることができるのだと福音書は語る。主イエスに倣い、他者のために自らを用いる時、私たち自身もまた大いなる尽きることのない喜びに満たされる。そのことを、この世の価値観・処世術では説明することはできない。しかし、十字架の死から甦られた主イエスは、決して消えることの無い希望として信仰者の群れを導くのである。主イエスの呼びかけに応える群れとして歩みたい。

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