2013年9月21日土曜日

[説教要旨]2013/09/15「一緒に喜んでください」ルカ15:1-10

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 出エジプト 32:7-14 【旧約・ 147頁】
第二の日課 Ⅰテモテ 1:12-17 【新約・ 384頁】
福音の日課 ルカ 15:1-10 【新約・ 138頁】

 私たちは、自らの利益を見込むとき、期待に胸をふくらませて喜ぶ。しかしそれは、同時にその影で、奪い取られ、与えられずに捨て置かれる声があることを忘れさせる。ならば私たちが、本当の意味で、喜びを分かち合うことは、どのようにして可能なのだろうか。
本日の箇所では、「徴税人や罪人が皆」、主イエスのもとにやってきたことが報告されている。ます。1世紀の時代、徴税人は異教徒であるローマ帝国の手先として厭われた職業であった。徴税人は金持ちであったというイメージがあるが、福音書ではザアカイの他には、そのことは明示されてはいない。むしろ道端で異教徒、外国人の手先として金を集め、時として、規定以上にとりたてようとすることもあり、人々からは「こずるい奴ら」というような扱いをうけていたようである。その一方で、取り立てた税は、元締めに吸い取られてしまい、何かトラブルがあれば、まっさきに首をきられる。そのような不安定な立ち場にあった者が圧倒的に多数であった。またここで、徴税人と並んで登場する「罪人」は、いわゆる道徳的な意味で悪いことをしたとか、現代的な意味での犯罪者ということだけを意味していたのではなかった。むしろ、ユダヤの民としてふさわしい基準、律法を守ることができないような職業についている人々をも意味していた。たとえばそれは安息日にも働かなくてはならない人であった。彼らはいわば、当時のユダヤの社会の基準でいうならば、ふさわしくない、つまはじきにされた存在でありました。
 そうした人々と共に、主イエスが交わり、食卓を共にされることを、ユダヤの民としてふさわしく、敬虔で信心深い者として尊敬と信頼を集めていた者たちが非難する。これに対して、主イエスはたとえを用いて応えられる。羊の放牧、家の中での探し物、それらはいずれも民衆の生活そのものであった。しかし、その日常生活の中で繰り広げられる出来事は、私たちの考える価値観からあまりにもかけ離れたものであった。99よりも1の方に、大きな喜びがあり、それは(この後につづく譬えから類推するに)近所の人を招いて宴席を催すほどだというのである。あるいは1枚の銀貨が、友達を招いて(やはりここも何らかの宴席を設けて)祝うほどの価値があるというのである。一匹の家畜の値段がどれぐらいであったかについては、その種類や大きさによって諸説あるが、およそ100日分の日当に相当したと思われる。銀貨はおよそ一日の日当に相当した。したがって、祝宴の規模にもよるが、それらはいずれも、決して経済効率としては良いものとは言えなかったと思われる。つまり、当時の物価を考えるならば、これらは、およそふさわしくない振る舞いであるとしか言いようがないのである。しかし、そのふさわしくない振る舞いは、天をも巻き込む大いなる喜びを分かち合うことをもたらすというのである。
 十字架へと向かう主イエスは、罪人と共に歩まれ、そして、その十字架によって、贖うにふわさしくないはずの私たちのために、その命を分かち合われた。この主イエスの十字架によって、私たちは大いなる喜びへと招かれているのである。主イエスによって招かれている、この喜びを憶えつつ私に達に備えられた日々を歩んでゆきたい。

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