2013年9月4日水曜日

[説教要旨]2013/08/25「癒しと解放の時」ルカ13:10-17

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 イザヤ 58:9b-14 【旧約・ 1157頁】
第二の日課 ヘブライ 12:18-29 【新約・ 418頁】
福音の日課 ルカ 13:10-17 【新約・ 134頁】

 私たちが、自分の経験や知識、秩序の外側にあるものに触れ、受け入れることは、決して簡単なことではない。それは私たちの築き上げてきたもの否定しかねない脅威だからである。しかし、私たちが自らの内側の論理だけに依拠するとき、私たちは致命的な誤りを繰り返さざるを得ないことを、私たちは過去の戦争の歴史から学ぶ。ならば、私たちはどこから、自分達の外側にあるものから聞く勇気を得ることができるのだろうか。
 本日の福音書は、世の終わりについて語られてきた直前までの箇所から一転して、「癒し」と「安息日についての論争」が語られる。しかし「世の終わり」もまた、この地上に「神の国」が実現することの教えであり、また本日の日課に続く13:18以下においても、「神の国」についてのたとえ話である。そして、なによりも「癒し」の出来事は、そこに神の国の先触れが現れていることの徴に他ならなかった。十字架の待ち受けるエルサレムへと向かう途上で主イエスは様々な角度から神の国について語られる。
 前半では18年間腰の曲がった女性の癒しが語られる。この女性が敢えてここで「病の霊にとりつかれている」という表現がなされている。それは、この女性の癒しを告げる主イエスの言葉「婦人よ、病気は治った」という言葉が、直訳するならば「病は離れ去った」と語っておられることに対応する。主イエスの言葉こそ、命を脅かす力に打ち勝つものであることを、福音書記者は特に強調する。
 後半ではこの癒しの出来事が安息日に起こったことを巡っての論争が巻き起こされる。緊急性がないにもかかわらず、なぜ安息日でなければならなかったのかを問題にする宗教的指導者たちの言い分は、ある意味で妥当である。安息日が創造の完成であることを憶えるために労働が制限されることは、少なくとも、ユダヤ・イスラエルの地で生きてきた人々にとって、誰もが知り経験している秩序であった。しかし主イエスは「偽善者達よ」という厳しい言葉で応えられる。
 この女性について主イエスは18年間サタンにしばられていたと語る。その背後には、「18年間もの間、サタンの支配にあるということは、それ相応の罪をおかしているに違いない」という世間の目にこの女性がさらされ続けてきたことが暗示される。主イエスを非難する宗教的指導者達は、いわばそうした「世間の目」を代表する立場であった。彼らが自らの秩序の枠組からのみこの女性に向かう時、痛みを分かち合うことは阻まれ、むしろ増し加えられることとなった。主イエスの言葉は、自分達の秩序に留まろうとすることが、むしろ他者への愛の欠如を招いていることを明らかにする。実に主イエスは、その十字架によって無限の神の愛をこの世界に分かち合われたのであった。
 主イエスは安息日であっても癒しはなされるべきであると語る。なぜならば、安息日は神の創造の業が完成されることであり、それは神の国が立ち現れることに他ならなかった。主イエスの言葉によって癒しと解放がなされる時こそが真の創造の完成であり、それは十字架に向かう主イエスの言葉によって私たちに示される。たしかに、私たちが、自分達の経験の外側から学ぶことは困難である。しかし、主イエスの言葉は、そのような私たちを、私たちの外側にある、真の創造の完成・キリスト者がめざす真の平和へと招いている。

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