2013年9月10日火曜日

[説教要旨]2013/09/08「十字架を負って」ルカ14:25-33

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 申命記 30:15-20【旧約・ 329頁】
第二の日課 フィレモン 1-21 【新約・ 399頁】
福音の日課 ルカ 14:25-33 【新約・ 137頁】
説   教 「 十字架を負って 」

 本日の福音書箇所は、主イエスがガリラヤからエルサレムへと向かうその旅の途中で、ご自分の後を一緒についてきた者たちに「振り向いて言われた」とある。それは、旅の終着点であるエルサレムでの十字架を主イエスが見据えていることを思い起こさせる。本日の箇所の前半では、主イエスに従う者は、あらゆるもの、家族の絆、また私たちの命にすら優先して主イエスに従わなくてはならないことが語られる。それは、私たちと主イエスとの関係は全てに先立つものであり、むしろその主イエスとの結びつきが成り立つ時、私たちの既存の信頼関係また私たちの命すらも、全く新たなものにされることを示している。
 そして本日の福音書の後半では、いわば主イエスの弟子として、主イエスに従おうとする者の心構えとは、慎重に検討し、勇気を持って思い切った決断を下さなくてはならないものであることが語られる。この後半に語られる二つのたとえを読み返すならば、そこには「腰をすえて」という表現が共通していることに気付かされる。腰をすえる、ということは、何か別のこと意図しながらではなく、そのことに専心するということでもある。一度に押し寄せる数多くの準備から離れ、腰をすえて考えるのだ、と語るのである。つまりこれらの譬えは、終着点に辿り着くという一点以外の、全てから離れ去ることを語っている。家族と命を捨て、自分の十字架を負って主イエスに従う前半の教えと、後半の譬えがこの点で結びつく。
 古代の社会と文化において、家族とは一族郎党を含む大家族であり、その集団によって積み上げられてきた伝統、名声、財産をも示唆していた。そうした意味で、家族はこの世での力の根拠であり、自分の生の価値でもあった。したがって、家族また命すらも失うという教えは、自らの力を過信し、思い通りに他者と世界を動かそうとする者にとって、厳しい警告となる。しかしその一方で、全てを失い、挫折と苦しみのなかに投げ出される者にとって、それは大いなる救いの言葉となる。
 弟子達は、ガリラヤからエルサレムへと向かう主イエスの後を、自分自身の決断と意志によってついていっていると考えていた。しかし十字架へと向かう主イエスの後をついてゆくことはできなかった。しかし、まさに彼らがそういう存在であるからこそ、主イエスはその死を超えて彼らの元へと戻られたのであった。十字架の死に打ち勝たれる主イエスがその傍らで共に歩まれることによって初めて、人はあらゆることに優って主イエスに従うことができるのである。まさにその意味で、ガリラヤからエルサレムの旅は、実は、弟子たちが主イエスについていく旅なのではなく、主イエスが弟子たちと共に歩まれる旅であった。
 主イエスと共にその人生の旅路を歩むためには、出自も、家柄も、財産も関係がない。ただ一人一人が、何も持たざる者であり、苦悩する弱い人間であることそのものが問題なのである。そして、その苦悩の先には新しい命があることを、主イエスはご自身の十字架の死からの復活によって示された。その意味で、私たちが自らの十字架、つまり自らの苦悩を負う時、主イエスは私たちと共に歩んでくださっているのである。主イエスが私たちの人生の旅路を共に歩まれるからこそ、私たちは全てに優って主イエスに従うものとして、喜びと希望に満ちた新しい命への道を歩むことが出来るのである。

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