2011年10月26日水曜日

[説教要旨]2011/10/23「天の祝宴への招き」マタイ 22:1-14

聖霊降臨後第19主日

初めの日課 エレミヤ 31:1-6 【旧約・1234頁】
第二の日課 フィリピ 3:12-16 【新約・ 365頁】
福音の日課 マタイ 22:1-14 【新約・ 42頁】

 本日の日課では、王の催す王子の婚宴のたとえが語られる。しかし、そこで語られる婚宴は、普通に私たちが考えるような「王の宴会」とは大きく異なる姿を呈している。王子の婚宴であるならば、そこに招かれるべきは「ふさわしい」家柄、名声、権力を有していなければならないはずである。つまり、その宴席につくための条件があらかじめ決まっているはずなのである。そこで招かれる者たちは当然のように、婚宴のしきたりに通じており、予め立てられた計画通り、しめやかにつつがなく婚宴を進めることができる、そのような客達が選ばれているはずであった。しかし、選ばれていた者たちは王の呼びかけに応えない。なぜ「ふさわしく」選ばれたはずの者たちが、王の呼びかけに応えないのか。計画通りに宴を進めるにふさわいしい客であるはずの彼らにとって、王の呼びかけは、自分達が既に有している資産を管理する以上の優先順位を持ち得なかったことが語られる。彼らにとっては、自分自身の計画の方が遙かに重要だったのである。自分の計画を変えることを拒み続け、度重なる呼びかけにも応じなかった結果、彼らは逆に自分の持てる全てを失うこととなるのである。
 一方で、宴席には予想外の者たちがやってくる。彼らは町の大通りを歩いていただけの者たちであり、その中には悪人も善人もいたと語られる。それはおよそ計画も予定も立たないような集まりであり、「ふさわしい」という言葉がこれほど似つかわしくない集まりはありえない。このたとえが語る王の祝宴とは、まさに主イエスがこの地上で実現してこられた食卓の集まりであり、それが天の国における祝宴の先触れであることがここで思い起こされる事となる。主イエスのもとに集うということ、そこには、私たち人間が「ふさわしい」と考える基準とは全くことなる論理が働いている。それは、私たちからするならば、「ただ大通りを歩いていた」に過ぎないようなものでしかない。私たちは、天の国祝宴に招かれるにふさわしいような、敬虔さも知識も名声も力もない。けれども、そのような私たちを、主は招かれているのである。何も持たざるものであるはずの私たちが天の祝宴に招かれているという事、それは私たちの思いと計画を超えて、私たちの生きている場所に起こる出来事であるということを、主イエスのこのたとえを通して私たちは知る。
 主イエスは、このエルサレムで、やがて権力者との対立を深め、十字架刑へと断ぜられる。それは、多くの人間の目から見るならば、このイエスという人物が、今の時代にはふさわしくない、計画を乱すまちがった存在であるということであった。けれども、主イエスは、その十字架の死から甦られた。それは、私たち人間が考える「ふさわしさ」や「計画」を超えて、神の力は働くということを私たちに示している。この地上で「ふさわしくない」と非難される時、十字架の主イエスは私たちの最も近くにおられ、私たちを支え、喜び溢れる天の祝宴へと導かれるのである。

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