2011年11月1日火曜日

[説教要旨]2011/10/30「神の言葉に立つ」ヨハネ2:13-22

宗教改革主日

初めの日課 列王記下 22:8-20 【旧約・617頁】
第二の日課 ガラテヤ 5:1-6 【新約・ 349頁】
福音の日課 ヨハネ 2:13-22 【新約・166頁】

 宗教改革主日である本日の福音書では、主イエスがエルサレムの神殿の境内で商いをしている者たちの屋台をひっくり返して回る衝撃的な場面が描かれている。主イエスのこの振る舞いは、やがて十字架刑を決定づける。その姿を単なる乱入者・破壊者として見るならば、主イエスの処刑は自業自得ということになる。けれども、主イエスがその命をかけて対決し、挑まねばならなかったものは何であったのかに思いを向ける時、この振る舞いはまた異なる姿を私たちに示すことになる。
 主イエスがその命をかけて挑み、対決されたもの。それは私たちを蝕む罪の力、私たちの心を虚ろなものとしてしまう死の力であった。罪と死によって私たちの命が蝕まれるとは、全ての造り主である神が私たちに命を与えられたことを私たちが忘れ、まるで自分自身が命の造り主であるかのうように振る舞い、そして多くの他者の命を、自分の欲望のための道具にしてしまうことである。そしてそうであるがゆえに、自分自身もまた常に、誰かによってその命が道具のように使い捨てにされてしまうことをただ怯えるしかなくなる。それこそが、私たちの命を蝕む罪と死の力である。しかしその力はあまりにも私たちの日常生活の中に深く根付いてしまっていて、私たちは一見平穏に見える自分の日常が、その背後で罪と死の力によって支配されていることに気付く事が出来ない。私たちは、自分にとって快適で心地良く、安心な世界を造り上げるために、他者の命をその道具として利用し、使い捨ててしまうことを正しいことと思いこみ、その罪に気付く事が出来ないでいる。しかし主イエスは、かつてエルサレムの神殿の境内において行われたように、私たちの日常の中に乱入し、そのような見かけだけの平穏を徹底的に破壊される。その主イエスの言葉が私たちのもとに届く時、私たちは自分が安全であるために他者に押しつけてきた多くの痛みを受け止めなければならない。けれども、痛みを分かち合うところ、悲しみを分かち合うところにこそ、希望が、そして永遠の命が分かち合われるということを、十字架の死から甦られた主イエスは私たちに示されたのである。
 ヘロデ大王がその威信をかけて改修した壮麗な神殿は、その後のローマとの戦争によって瞬く間に徹底的に破壊されてしまった。一方主イエスの福音は、私たちの生きる日常を根底から変える力となって今に伝えられている。私たちが主イエスの言葉を聞くとき、罪と死の力に支配された私たちの日常は砕かれる。そして同時に、永遠の命に生きる希望が私たちに与えられるのである。宗教改革者ルターがその命をかけて伝えなければならなかったものとは、この主イエスの福音の力に他ならなかった。この世のいかなる力も、神の言葉、主イエスの福音に打ち勝つ事はできないのである。

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