2011年10月1日土曜日

[説教要旨]2011/09/18「自分を低くして」マタイ18:1-14

聖霊降臨後第14主日

初めの日課 エレミヤ 15:15-21【旧約・1206頁】
第二の日課 ローマ  12:9-18 【新約・292頁】
福音の日課 マタイ  18:1-14 【新約・34頁】

 本日の日課の前段落で舞台は再びカファルナウムであることが語られる。カファルナウムは、主イエスがガリラヤ伝道の拠点とされた町であった。続く19章の始めでは、主イエスはこの地を発ってユダヤ地方つまり宗教的・政治的権威とのこれまで以上に厳しい対立が待ち受けているエルサレムに向かって南下することが告げられる。それは受難の道のりの最後の段階へと主イエスが歩みを進められることでもあった。十字架の陰がより一層濃くなる中、ガリラヤでの宣教活動の締めくくりとして、本日の日課を含む18章では教会生活のあり方について語られる。
 冒頭で弟子たちは「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と主イエスに問う。これに対して、主イエスが示したものは一人の子どもの存在であった。古代のユダヤ社会において、「子ども」が象徴するものは、未成熟・貧しい知識と判断力・無秩序・無思慮・非力、こうした概ね消極的・否定的なものであった。「天の国でいちばん偉い」ということは、権威と栄光の至高の極みを問うものであったのに、それに対して主イエスが示されたものは、この地上においては、弱く不完全で持たざる者の姿であった。
 それを補足するように主イエスは「これらの小さなものの一人のつまづき」について警告する。小さなものは、弱いゆえに、足らざるがゆえに、躓く。しかし、その弱いこと、小さいことを主イエスは責めることをしない。むしろその弱さと小ささを受け止めることが出来ない者をこそ、主イエスは厳しく糾弾する。ついで、よく知られた「迷い出た1匹の羊」の譬えを主イエスは語られる。ルカ福音書では「見失った」と語られている羊は、マタイでは「迷い出た」と語られる。つまり、この羊が群れからはぐれてしまったのはは、私たち人間の価値基準で計るならば、自業自得、自己責任と呼ばれる結果であることが示唆されている。主イエスに従う者の群れから迷い出てしまう時、それは自分自身の意志の弱さ、知識の貧しさ、そして言うならば信仰の薄さであると、私たちは考える。けれども、主イエスが弟子たちに語られるのは、そうした、その迷い出た者自身の不足・弱さを問い責め立てることなではない。むしろ、迷い出た者をどこまでも求めてゆく態度なのである。
 これらの事柄を貫いているのは、弱さ、不完全さへの、神の愛と慈しみに満ちた主イエスの眼差しであり、その弱さ・不完全さを共に担おうとする姿なのである。それは、この後の福音書の物語において、十字架への道筋を歩まれることによってより一層明らかとなってゆく。十字架においてまさに主イエスは、この世における最も低いところへと向かわれた。そこで主イエスが、この世の弱さ・貧しさ・痛み・苦しみ、そうしたものを全て担って下さったことによって、弱い者、持たざる者、迷い出る者への神の愛と慈しみは全ての民に与えられることとなったのであった。主イエスに従う群れである私たちは、自らを低くする時こそ、主イエス・キリストは最も私たちの近くにおられることを、十字架を通して知るのである。

0 件のコメント: