2011年10月1日土曜日

[説教要旨]2011/09/25「主の名によって集う」マタイ18:15-20

聖霊降臨後第15主日

初めの日課 エゼキエル 33:7-9 【旧約・1350頁】
第二の日課 ローマ  12:19-13:10 【新約・292頁】
福音の日課 マタイ 18:15-20 【新約・35頁】

 ユダヤ地方つまりエルサレムに向かって旅発つにあたり、ガリラヤ宣教の締めくくりとして、マタイ18章では信仰の共同体についての教えを主イエスは弟子たちに向かって語る。本日の日課の前半では、過ちを犯した信仰者を断罪するための過程について触れられているのに対して、後半では、信仰者の一致と祝福について語られているのは、まるで相矛盾することであるように思われる。これらをつなぐ鍵は、18章の全体の文脈の中でこれらを受け取ることである。すなわちこの箇所の主題は、躓いたもの、迷い出たものをどのように断罪するかなのではなく、どのように和解と信頼とを獲得していくのか、ということにある。いわば、15-17節は、迷い出た羊を取り戻すための具体的な方法について語っていると受け取ることすら出来る。実に、ここで重要なことは、罪の重さとそれに対する罰の正当性を語ることなのではない。むしろ、どのようにして躓き迷い出た一人を取り戻すことができるのか、失われた信頼と絆を回復し、和解を築き上げることが出来るのか。そのことがここで問われているのである。
 聖書は第一に対話を求める。対話無しに、信頼と和解はありえないからである。しかし同時に、個人的な関係だけにそれを留めず、複数の者による関わりを聖書は求める。忠告をする者もまた一人の限界ある人間である以上、的外れな思い込みをしていたり、不適切な語りかけをしてしまうことは当然起こりえるからである。たった一人による働きかけが潰えただけで、兄弟を失ってしまってはならないことを聖書は語るのである。そしてさらに、その働きは信仰の共同体としての教会によって担われなければならないことが語られる。そこには、特定の指導的な役職については一切記されていない。それどころか、かつて16:19でペトロに対して語られた18節の言葉は今度は主イエスに従う弟子の群れ全体に対して語られる。今や信仰の共同体の一人一人は、同じく主イエスに従う群れにいる一人一人に対して、信頼と和解とを築き上げるための職務を与えられているのである。
 しかし、果たしてそのようなことが可能なのであろうか。私たち一人一人は、それだけの責務を担うだけの意志も能力も無いことを、自分自身がよく知っている。そうであるからこそ、主イエスは語られる。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」私たち自身には、全く不可能に見えるような時でも、そこには、それは私たちの全ての不信と絶望を担い、十字架においてそれらに勝利された主イエスが共におられるのである。自分自身の力によるのではなく、不信と絶望の極限である十字架の死から甦られた主イエスが共におられるからこそ、私たちは失われた信頼と絆を取り戻すことが出来るのである。主の名によって集まるところ、それは不信の中に信頼が、そして絶望の中に希望が与えられるのである。

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