2011年10月21日金曜日

[説教要旨]2011/10/16「捨てられた石から」マタイ21:33-44

聖霊降臨後第18主日

初めの日課 イザヤ 5:1-7 【旧約・1067頁】
第二の日課 フィリピ 2:12-18 【新約・ 363頁】
福音の日課 マタイ 21:33-44 【新約・ 42頁】

 この21章ではエルサレムの神殿に入り込んで人々に勝手に語るイエスという男に対して「何の権威でこのようなことをしているのか」と宗教的な権威者達は問い糾す。その詰問に応えて主イエスは神の国についての3つのたとえを語られる。その二つ目として主イエスが語られた本日の日課である「ぶどう園と農夫」のたとえは、もしこの箇所だけを取り出して読むならば、何を言いたいのか理解しがたいと言わざるを得ない。無防備に使いの者を派遣しつづけるぶどう園の主人はまるで無策としか言いようがない。それどころか、先の多くの使者に暴力がふるわれているにも関わらず、またしても何の対策も無しに跡取り息子を派遣する。その姿は、およそ危機管理というものを知らないのではないかと思わずにはいられない。そのようなことが出来る主人がもし存在するとするならば、使っても使っても減ることのない無尽蔵の資産を持っているか、あるいは、およそ人間ではありえないような寛容さを備えているかとしか考えられない。しかし、私たちは先の第1のたとえからの続きでこの第2のたとえを読むとき、これが私たち人間の価値観に基づいているのではなく、その根幹にあるものは神の国の基準であることを思い起こすこととなる。この地上において見える序列、権威とは相反する価値基準であった。
 本日のたとえは言うまでもなく、主なる神が民に遣わした預言者達の運命、そして最後に神の子である主イエスの派遣とその運命を象徴している。「何の権威でこのようなことをしているのか」と問い糺されたことに対してこのたとえが語られている。主イエスの権威とは、この地上における序列でもなければ、人として有する知識や敬虔さの深さでもない。主イエスの権威とは、そのひとり子主イエスをこの地上に送られた主なる神のその無限の愛と寛容さに他ならないのである。
 42節で引用されている詩編の言葉は、人の目から見るならば捨てられるしかない石、十字架に死した主イエスこそが、逆に私たちを砕き、この主イエスを基礎の石として教会が造り上げられていることを語る。この地上においては、私たちが他者を序列化し裁くその同じ価値基準によって、自分自身もまた序列化され裁かれる。その繰り返しの中で私たちはいずれ「おまえにもはや価値など無い」と断じられる時を前にただ怯えるだけである。けれども、捨てられた石、十字架にかけられた主イエスを基として教会は建てられた。そこは、私たちを支配するこの世の価値を砕き、代わりに神の限りのないそしてはかり知れない神の愛が支配する場所なのである。この神の限りのない愛は、永遠に砕けることなく残り続けるのである。

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