2011年10月15日土曜日

[説教要旨]2011/10/09「この最後の者にも」マタイ20:1-16

聖霊降臨後第17主日
初めの日課 イザヤ 55:6-9 【旧約・1152 頁】
第二の日課 フィリピ 1:12-30 【新約・ 361頁】
福音の日課 マタイ 20:1-16 【新約・38頁】

 本日の日課のたとえ話を一言で言うならば、「不公平な主人」とでも呼ぶべきであろうか。なぜならば、この主人は夜明けから働いた者にも、夕方の5時から働いた者にも、同じ賃金を支払うからである。この主人の態度は、私たちの価値観・世界観からするならば明らかに不平等であり不公平である。それゆえこのたとえ話は、私たちのいわば「正義感」に対して挑発をしかけてくる。私たちは、私たちの正義感と折り合いをつけるためにこのたとえに対して様々な解釈を試みようとするかもしれない。たとえば、同じ賃金が支払われたということは、同じだけの作業をしたということでなければおかしい。そうであれば、遅い時間から来た者たちは、早くから働いていた者よりも、短い時間でたくさんの仕事をしたのではないか。だからこの譬えは、後から来た者は、熱心に励まなければならないということなのではないか。あるいは、早くから来た者に優るほどの働きを見せれば、同等もしくはそれ以上に評価してもらえるということを語っているのではないか。たしかに実績や成果によって、人の働きは評価されるべきであるという論理の方が、主イエスの語るたとえよりも、私たちにははるかに理解しやすいのではないだろうか。しかし、そうであるからこそ、主イエスのたとえは、この地上の価値観に対して対決し、より一層強く私たちを挑発し揺さぶりをかけることとなる。主イエスのたとえの中では、その労働者たちはその働きの多寡、優劣によって比べられてなどいないからである。
 平均的な耕作労働者の年収200デナリオンで買うことの出来るパンの量は6人家族の場合一人あたり400個程度であった。一日あたりの熱量に換算すると1400カロリーであり、これは生きるために最低限度の食糧であった。つまり1デナリオンの報酬とは、一人の命が今日支えられるために必要なものであった。このたとえにおいて、報酬は働きに対してではなく、いわば一人一人の存在そのものに対して与えられているのである。
 働きへの評価ではなく、存在と命が支えられるために1デナリオンが与えられるその理由は、ただこの主人の気前の良さ、ただ与えようとするその深い愛ゆえであった。
 主イエスは、これらの教えを、エルサレムの十字架へと向かう道筋において弟子たちに語る。主なる神が、主イエスを与えられたのは、その後に従おうとする弟子たちの働きが他のだれかよりも優っていたからなのではない。ただ神の愛ゆえに、主イエスは地上に与えられ、そして私たちに救いを与えられたのである。命の源である神は私たち全ての存在、命を愛され、そのために主イエスを、そして十字架による救いを私たちに与えられ。その十字架のもとに私たちが集うとき、私たちはこの世の価値観から解き放たれ、ただ一つの命として主なる神に受け入れられていることを知るのである。

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