2011年10月5日水曜日

[説教要旨]2011/10/02「赦し合う群れ」マタイ18:21-35

聖霊降臨後第16主日

初めの日課 創世記 50:15-21 【旧約・ 92頁】
第二の日課 ローマ 14:1-18 【新約・293頁】
福音の日課 マタイ 18:21-35 【新約・35頁】

 本日の日課はこの18章のこれまでの教えに応答するようにペトロが主イエスに尋ねる。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」当時のユダヤ社会では「3回までは赦す。しかし4回目は赦さない」といわれていた。そうした世間一般の感覚に対して、ペトロは「7回までですか」と問いかける。それは世間の常識の倍以上の数字であり、ペトロは弟子の筆頭としてふさわしい、立派な決意をそこで表明したと言うことすら出来る。しかし、それに対して主イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答えられる。それはもはや計算が、あるいは赦した回数を数え上げることそのものが、ばかばかしくなるような応えである。3回か、7回か、それはまだ私たちの生活の中で現実感のある数字であるが、7の70倍という応えは、そうした私たちの常識にゆさぶりをかけることとなる。
 主イエスはさらに、ある王と家来、そしてその仲間についての譬えを語られる。貸した金の決裁をしようとする王の前に、1万タラントンの借金を王に対して負っている家来が連れてこられる。1タラントンは、ギリシアの通貨としては6000ドラクメ、つまり聖書の通貨では6000デナリオンとされている。1デナリオンは1日の日当とされていたので、1タラントンですらおよそ20年分近い賃金に相当する。ヘロデ大王の年収が900タラントンであったとされていることから考えても、1万タラントンという数字が、およそ一人の人間の力ではどうにもならない負債であることが、ここで強調されることとなる。しかし、私たちには全く思い依らない仕方で、王はこの家来を憐れに思い、その負債を赦してやることとなる。その負債の額が私たちには想像も出来ないのと同様に、その憐れみもまた、私たちには想像も出来ないものであった。
 しかしこの負債赦された家来は、今度は自分の仲間から100デナリの借金をとりたてようとする。それは決して小さくはないが、私たちにとってはまだ現実的な金額である。この現実的な負債に対して自分の正統な権利を主張することは、その行為だけを取り上げるならば、彼の行為は正しいとすら言える。しかし、直前の王と家来との関係を前提にするとき、彼の主張する正しさは、あの無限の寛大さの前では全く空しいものとなってしまう。
 このたとえを私たちが聞くとき、私たち自身の姿を思い起こさせる無慈悲な家来の末路にのみ目が向いてしまう。しかし、このたとえにおけるもっとも重要な点は、互いに自らの正しさを言い争い傷つけあうその私たちの姿を空しくさせるような、無限の神の愛、憐れみ、そして赦しが私たちには与えられているということなのである。私たちはこの地上の世界で、自らの正しさを主張するがゆえに、対立し、憎み合い傷つけあう。しかし、そうせずには生きられない私たちの現実に対して、それを包み込み、その傷を癒し、再びつなぎあわせる神の愛を主イエスは示される。
 なによりも主イエスご自身が、私たち一人一人に神の赦しと憐れみを与えるために十字架につけられ、その死から甦られたのであった。だからこそ私たちは、神の愛によって癒され満たされて生きることが赦されているのである。私たちと共におられる十字架の主イエスは、私たちを赦された者の群れへ、そして赦し合う群れへと導かれる。

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