2010年4月12日月曜日

[説教要旨] 2010/4/4 「準備していたものが」 ルカ24:1−12 

復活祭

初めの日課 出エジプト 15:1−11 【旧約・ 117頁】
第二の日課 1コリント 15:21−28 【新約・ 321頁】
福音の日課 ルカ 24:1−12 【新約・159頁】

 日曜の朝、主イエスの弟子の女性たちは、金曜の午後には出来なかった、葬りの準備をして、主イエスの亡骸が葬られた墓穴へ向かう。主イエスの十字架刑に際して、男の弟子たちが既に逃げ隠れてしまったのに対して、女性たちが自らの危険を顧みずに墓へと向かうということは非常に興味深い。驚くべき出来事を最初に体験するのは、12使徒としてこれまで何度も名前が挙げられた男たちではなかった。そして、たどり着いた先で彼女らは驚くべき体験、すなわち空虚な墓を発見することになるのである。それは主イエスの復活に関する、最初の証言となった。
 復活とは、理論的に証明されるような事柄ではないし、議論によって疑問点が解明されるようなものでもない。復活の信仰とは、ただ人々の証言によってよみ伝えられるものなのである。しかし、それは信仰者の主観的な思い込みを伝えるということでもない。福音書は、最初の目撃者である女性たちを通して、思い込みの余地のない、一つの客観的な事実として、私たちに「墓は空虚であった」ということを伝える。空虚な墓で、輝く衣を着た二人(=天使)は主イエスが既にガリラヤとそこからの旅の途上で繰り返し語ってきた言葉を、ここで再度繰り返す。いわば、空の墓においてはじめて、女性たちは主イエスの言葉を、本当の意味で自らのものとすることが出来たのであった。
 女性たちの証言、それは、準備していたほうむりの準備が、すべて空しいものになってしまったというものである。それは、私たち人間の論理の観点から言うならば、むしろ残念なことであるはずである。しかし、墓は空であったということ、そしてそれは、主イエスは甦られたということであるとわかったということ、それは準備していたものが、無駄になってしまったという、個人的な思いを遙かに凌駕して、全世界に、すべての時代に届けられる喜びのメッセージとなったのである。
 この箇所において、主イエスは登場せず、そこではただ、主イエスの不在だけが語られている。しかし、それにもかかわらず、そこには主イエスの存在は不可欠のものとなっている。主イエスが墓には既にいないという出来事が、そこに集ったものたちの、価値観を根底から逆転させているのである。準備していたものが無駄になることがかえって喜びのしるしとなり、私の悲しみは、多くの人々の喜びへと変えられるのである。
 イースターの出来事、それは私たちのあらゆる悲しみが、根底から喜びへと変えられる出来事なのである。

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