2010年4月12日月曜日

[説教要旨] 2010/3/14 「祝宴を開いて」 ルカ15:11−32 

四旬節第4主日

初めの日課 イザヤ 12:1−6 【旧約・ 1079頁】
第二の日課 1コリント 5:1−8 【新約・ 304頁】
福音の日課 ルカ 15:11−32 【新約・139頁】

 本日の物語には、二人の息子とその父親が登場する。二人の息子のうち、次男はまだ父親が健在なうちに、自分が受けるべき財産の分け前を要求する。それは父親を既に死んだ者と見なす行為でありまた、自分の父の死を望んでいると公に言うようなものであった。ところがそのような無礼な要求に対して、父親はなぜか何も言わずにそれを受け入れる。
 財産の分け前をもらった息子は、それをすべて金に換えて、遠い国へ出て行く。それは、距離的に離れるということだけでなく、共同体から距離をおく、あるいはそこで受け継がれてきた伝統や歴史を拒絶する、ということを象徴的に示している。そしてこの息子は、持てる財産によって、友人を得、自分の価値を誇示することが出来た。しかしその財産を使い果たしたとき、彼には何も残ることはなかった。その時に彼にまだ残っているのは、ただ、父の息子だという事実だけであった。全てを失った時も、その事実だけは失いようがなかったのである。彼はその時初めて「ある」と言うことだけで与えられている、命の意味に気付かされたのである。そして、父親にとっては、息子が父に対して過ちを悔いることも、赦しを請うことよりも、あの父の息子で「ある」事のみにしがみつくだけで十分であった。姿を見つけただけで走り寄って息子の首を抱く父親は息子に何も求めはしない。
 一方、仕事を終えて帰ってきた兄息子は祝宴の様子を耳にして不審に思い、そしてたずねた僕の答えが彼に怒りを抱かせる。父が弟をずっと待っていたこと、弟が無事に帰ってきたこと、弟の帰還を祝って父が宴会を催したこと。その全てが兄にとっては腹立たしいことであった。喜ぶことが出来ず、家に入ろうともしない兄息子に、父親はわざわざ家から出てきて「一緒に喜んで欲しい」と語りかける。しかし兄は許すことができなかった。「一度も」背かなかった自分に対して父は「一度も」山羊一匹くれなかった。それなのに「あなたのこの息子」のためには子牛を屠るのか。そのように訴える兄息子もまた、弟息子と同様にただ父の息子で「ある」ことだけで意味がある、そこに喜びがある世界に生きてはいない。兄息子にとっては、努力すること、枠をはみ出さないことが正しく、評価されることであり、それ以外の生き方は認められない。それ故に枠をはみ出した、はみ出さざるを得なかった弟に対して、兄はそこに共に生きる価値を認めないのである。
 その意味で兄もまた、弟と同じように、父親に対しては失われた息子なのです。弟と同じように、兄もまた父親に対しては失われた息子なのである。この兄に対する父の「私はいつもお前と共にいる、私の者は全てお前のものだ」という言葉でたとえ話は結ばれ、その結末がどうなったかは読者に投げかけられている。
 主イエスはこのたとえを、ご自身が徴税人や罪人と食事をすることを非難する者たちに対して語られた。誰かが主イエスとの祝宴に共にあることができるかどうは、その人の正しさや行動によって決定されるのではない。主イエスの十字架と復活によって、天の祝宴はいつでも私たちのために開かれたものとなった。私たちが立ち返るべきこと、それはただそこに共に「ある」ことだけで十分であることに気付き、喜ぶことなのである。

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