2010年4月12日月曜日

[説教要旨] 2010/3/21 「捨てられた石から」 ルカ20:9−19 

四旬節第5主日

初めの日課 イザヤ 43:16−28 【旧約・ 1131頁】
第二の日課 フィリピ 3:5−11 【新約・ 364頁】
福音の日課 ルカ 20:9−19 【新約・149頁】

 ルカ福音書20章では、主イエスが宗教的権威たちと論争する場面が描かれる。そこではもはや、村々で行っていたような癒しの業はなされなかった。ガリラヤから村々を回る長い旅を経て、エルサレムにたどり着いた主イエスは、神殿において語り教えることに集中される。
 村々の会堂と異なり、神殿は祭司たちが専門的に管理する場所であった。そこで教える主イエスは「何の権威でこのようなことをしているのか」と問いただされる。主イエスはガリラヤでは既に「『霊』の力に満ちて」(4:14)、権威を持って語られていた(4:31)。しかし、伝統と権威を担うエルサレムの神殿を管理するものたちは、辺境において示された権威を、自分たちの管理する領域では認めることができなかった。そのようにして、神殿を管理する宗教的権威らは、自分たちの「なわばり」あるいは「聖域」を侵犯する主イエスに対する敵意を深めてゆくことになる。神殿において主イエスは、ご自分の周りにいる民衆たちと、敵対者との、その双方に対して、ぶどう園の譬えを通して、その教えを語られることとなる。
 イザヤ書、エゼキエル書などの預言書では、「ぶどう園」とは神が実りある結果を期待して、時間・労働・配慮・忍耐を大いに注ぐ事業の象徴として語られる。そのぶどう園の実りを得るために遣わされた使者らを、小作人たちは受け入れず、最後に遣わされた跡取り息子をも殺してしまう。小作人たちの視点に立つならば、ぶどう園の実りは自分たちの働きの結果であり、他の誰にも渡してはならないものであった。しかし、その結果彼らが得たものは、自らの滅びであったという、ショッキングな結末をもってこの譬えは締めくくられる。この譬えが、預言者たちと主イエスを拒絶する、エルサレムの宗教的権威らを指していることは、既に物語の中で指摘されている。実際に、自分たちの聖域に対して、きわめて忠実であった熱心党らのローマに対する抵抗運動は、70年のエルサレムの街と神殿の崩壊という結果を招くこととなったことを歴史は示している。「自分の」ぶどう園を守ろうとした小作人たちと同様に、自らの聖域を守ろうとした宗教的権威たちは、守ろうとしたものそのものを失うこととなったのである。
 旧約からの引用は、2つのイメージをもって私たちに迫ってくる。一つは不要な石が、実は中心となるべき石となった、という逆転の構図である。そこでは、完成し、建て上げられる神の業がイメージされている。一方ではあらゆるものを「打ち砕く」イメージが語られる。それは、かつて同じ神殿で幼子イエスを見たシメオンが語った「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」という言葉の実現を示すものであった。いずれにしても、「隅の親石」主イエスこそが、神の救いの業において、最終的なものであり、決定的な要素なのである。主イエスの十字架、それは私たちの「聖域」を侵犯する「捨てられた石」である。しかしこの主イエスの十字架を通して、私たちの思いは砕かれ、そして神の救いの業は完成されるのである。

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