復活後第2主日
初めの日課 使徒言行録 9:1-20【新約・ 229頁】
第二の日課 黙示録 5:11-14【新約・ 458頁】
福音の日課 ルカ 24:36-43【新約・161頁】
エマオから二人の弟子がエルサレムに戻り、他の弟子たちに自分たちの体験を語る。主イエスと再び出会う体験を通して、今や彼らは「心が燃えた」と語る。夕暮れの道での暗い顔で語る彼ら二人と、真夜中に家の中で燃える心で語る彼らの間には、同じ人間でありながらも、何か決定的な相違が生まれていた。しかし、この二人の体験を聞いても、残りの弟子たちは、それを信ずることは出来なかったであろうと思われる。二人の弟子と、真夜中の家の中に隠れるようにして集まっている、それ以外の者たちとの間には、決定的な相違があった。
そこに、突然主イエスが彼らの真ん中に現れ、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語る。しかし弟子たちは、亡霊を見たと恐れおののき、心に疑いを起こし、平和とは全くほど遠い状態にあり、主イエスがその身体を示しても、信ずることは出来なかった。ただ主イエスが弟子たちと共に食事をすることで、はじめて彼らは、その命の現実を理解することができたのだった。
復活の主イエスの顕現を巡るこの短い段落の中に、死と命、恐怖と平和、疑いと信頼、という対立する要素が詰め込まれている。主イエスを巡って、弟子たちの心は恐れ、疑い、そして心に平安と喜びと燃える思いをまた与えられた。なぜならば、復活の主イエスは、十字架において死なれた主イエスでもあるからなのである。主イエスにおいて、命と死は激しくぶつかりあっているのであり、しかも、死は一度は命を飲み込んでしまうのである。けれども、その死は決定的に最後のものではないこと、一見命の敗北にすら見えるような、その死の勝利の先に、新しい永遠の命の領域があることを、復活の出来事を通して聖書は私たちに語る。
主イエスを亡霊と思い、恐れおののき心に疑いを起こすということ、それはエマオ途上にあった暗い顔をした二人がそうであったように、死の勝利しか見ることが出来ない、私たち人間の姿でもある。そのような私たちは、一つの部屋に集まっていても、不信と不安とによって分断されているような有り様を超え出ることが出来ない。しかし、死の力は主イエスと弟子たちとの絆を断ち切ることは出来なかった。主イエスは甦り、再び彼らのもとを訪れ、彼らの間に平和と信頼を回復された。それは彼らの心の目が開かれ、死ではなく、命の勝利を見ることが出来るようになったということであった。復活の主イエスが私たちに与えられたということ、それは私たちもまた絶望的な状況を超えて、命の勝利と、平和と信頼とに満たされることを、確信することが出来ることを、聖書は私たちに語るのである。
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